Nara de Rock'n'Roll 3rd

京都の大学生の独り言……

怒りの河原町、人畜無害は有害だ!

ご無沙汰してます。和田です。(もう本名でいいや)

 


先週、今週、来週と3週連続で学会です。来週は俺も発表させてもらうことになったので、ホントは今ももっと頑張ってなければいけないはずです。

 


本格的な学会に参加させてもらうようになってとても痛感することですが、人とのコミュニケーションって大事だなって思います。まあ、当然なんですけど。

 


豊かな見識を持っている人との会話は本を読むよりも遙かに勉強になりますし、そもそも詳しい人に聞くことで何の本を読めばいいか、どんな勉強をしたらいいかがわかってくるわけです。

 


巷では「勉強は陰キャに与えられた最後の武器」的な言説を(稀に)耳にしますが、残念ながらそれは間違っています。コミュ力がすべてなのです。たくさんの人に話しかけて話を聞く方が、一人で黙々と勉強と勉強している奴なんかよりも遙かに良質なテキストに効率的にアクセスできる訳です。やはり人間てのは社会的動物なんですねえ。

 


腹を割って話せるっていうところで、飲みの席ってのはやっぱりそれなりの意味があります。

 


昨日もたくさんの方とお話ししましたが、特に俺の10コ程上の研究室の先輩(今では高名な研究者として活躍されている方)と熱い議論を交わすことが出来ました。その方もだいぶ酔いが回っていたようで、お前は勉強不足だね的なことを散々言ったあげく、「○○センセ~こっちきて~♡」って女子学生に連れられて話の着地点を示さぬまま席を離れたときは割とイラッとしましたが、悔しいけど普通にすごく勉強になりました。専門家に「これってどういうことですか」「これっておかしくないですか」と厚顔無恥に訊けるのはお酒のおかげです。

 


昨日の飲み会で俺がいた卓は他大学の学生がたくさん集まっていて、しかもほとんど同期でした。志を同じくする友人が多く出来たのは素直にうれしかったです。ただ、みんなそれなりに研究は出来るんだろうし、俺よりも優秀な同期も結構居るとは思うんだけど、なんか少し腹がたつことがあってですね……

 


考古学の詳しい話になってしまいますが、考古学の発掘調査ってのは普通は県や市といった自治体がやるんですけど、考古学を専攻している学生ってそういった自治体に雇われて発掘調査作業員としてアルバイトに就くことがおおいんです。ただ、その学生バイトの条件って結構ひどくて、基本的には最低賃金で交通費はゼロ。俺が今いってるバイトの場合は、往復5時間かけて通勤して、一日中ほぼ肉体労働で日給3000円ほど(交通費抜いて)。まあ普通にやばいよね。

 


ただ、こうした現場経験って学生にとってはとても貴重な勉強の機会で、自治体も少ない予算で頑張って学生を現場に入れてくれているって側面がある。つまり業界全体が未来の埋蔵文化財行政を担うだろう学生をバイトという形で育てているところがあって、学生の発掘バイトは自治体の善意で雇ってもらってるともいえる。

 


たださ、「善意で勉強させてもらってる」って側面と「不当な労働条件」ってのは話が別でさ、こういう現状ってどうなん? 俺たち若手が変えていかなきゃねって話を同期たちにしたらみんなぽかんとしてやがんの。

 


「働かせてもらってるだけでありがたい」とか「僕らの上の世代は無給で働かされていたんだから文句は言えないよ」とか……

 


はぁ~? ふざけんなよばかやろう。このくそ坊ちゃんが。

 


これはただ単におまえらのお小遣いの話をしてるんじゃないの。俺らよりもっと下の世代のありかたにも直結してくるはなしなの!

 


ただでさえ文化財行政を取り巻く状況なんか悪化してるんだから、これから勝手に条件が良くなることなんか無いの、俺らの後輩は無給で働かされるかもしれない。上の世代とは学費も物価も社会を取り巻く環境も全然違うんだぜ?下の社会は金持ちの家の坊ちゃんがボランティア的に歴史を勉強するマジのディストピアになるぜ?

 


なぁにが「おれの技術なんか使い物にならないから、現場でお荷物だから」とか弱気なこと言ってんだよ。専門技能で仕事しながら大学院に進学する時点でお前は立派なエリートなんだよ!!エリートが不遇でどうするよ?!お前はいいかもしれないけど、文化財行政の未来を考えたらそれじゃあだめなんだよ!

 


なぁにが「和田くん、酔うとケッコウ言うねぇ~」だバカやろう!こちとら憂国の公憤じゃ!なんで俺を冷笑するんだ。いくら日和見気取ってても不当な構造を受け入れた時点で未来からしたらお前は不当だ!

 


要するにおまえらは歴史オタクなだけなんだよ。大好きな歴史を勉強させてもらってるから金はいらないとかいってんじゃねえ、そりゃいらねえよそんなキモオタにやる税金なんかないわ!!

 

歴史ってのは人文学なんだよ。なんでそう視野が狭いかね。ガザの空爆に何も感じないで、既存のシステムを妄信して、政治家や行政が決めたルールに何の疑問も抱かないで、自分の業界の未来さえ考えられないで、なにが人文学だよ。

 


人文学は既存の土俵で戦っちゃいけないんだよ。人文学なんて政治や行政に何も寄与しないんだから。正当なストライキなんて意味ねえよ。そうですか、じゃあ掘りません、思う存分に都市開発しますになるだけだろ。そうやって人文学が舐められて、歴史がアカデミアの手を離れて政治ものもになって、政治的扇動に都合いい歴史が出来上がって、社会が分断されるわけだ。じゃあ人文学なんてマジでやってる意味ないじゃん。

 


俺はマスコミに就職してメディアの側からこの現状を変えてやるよ。なんだかんだいって文化財は好きだからね。

 


でもおまえらはなんなん?アカデミアに残って学界を引っ張る未来あるおまえらが問題意識すらもってないでどうすんねん!!

 

ひよってんじゃねえよ。いい子ぶってんじゃねえよ。自己犠牲は不当な構造を継承する悪事だぜ。

小説の効能

「美の感覚に導かれた人間は偶然の出来事(ベートーベンの音楽、駅での死)をモチーフに変え、そのモチーフはもうその人間の人生の曲の中に残るのである。そのモチーフは人生にもどってき、人生を繰り返させ、変え、発展させるが、それは作曲家が自分のソナタのモチーフをそうするようなものである。(中略)すなわち、小説が偶然の秘密に満ちた邂逅(例えば、ブロンスキーとアンナの出会い、プラットホームと死、あるいは、ベートーベンとトマーシュとテレザとコニャックの出会い)によって魅惑的になっているとして非難するべきでなく、人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。」

クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

 


小説、ひいてはフィクション全体に対する捉え方として非常に素敵だなと思い、今読んでいる小説から引いてきた文です。僕はかつて「人生は小説のようにロマンチックであるはず」といったことをテーマに小説を書いたことがあり、小説を人生の、人生を小説のアナロジーとしてみる見方は共感するところが多いです。

 


フィクションは楽しければそれでいいという意見もあるとは思いますが、一方でフィクションを読むことで人生に美しさを見いだすことができる、という効能も確実に存在します。多くの良質なフィクションに触れることで陶冶される「自分の人生は美しい」という感覚は必要最低限の自己肯定感を担保し、自傷的行動に走る前の最後の防衛線になります。

 


もちろん、つらい現状にいるさなかはつらいでしょう。けれども後から振り返ってみたら、浪人生のときにに地元の海を当てもなく散歩したことも、大学生で恋に悩んで鴨川の縁に体育座りして過ごしたことも、そのとき見た夕焼けと聴いていたチャットモンチーとともに美しい思い出として引き出されます。自分の生き方は正しいかどうかはわからないけれど、間違ってはいなかったと思えるのです。

 


たくさんフィクションを知り、クンデラの言う「人生の美の広がり」に目を向けるようになると、さらにフィクションを味わうことが出来るようになります。

 


一ヶ月ほどまえ、僕が院試勉強で心身共に疲弊しているとき、小沢健二の「アルペジオ」という曲を聴いて涙が止まらなくなってしまったことがありました。この曲の歌詞は少し特殊で、三つのストーリーが重ねられているのです。一つ目は小沢健二岡崎京子とのストーリー。(このあたりの事情を丁寧に解説してくれている記事があったのでリンクを載せておきます。)

ameblo.jp

 


二つ目はこの曲が書き下ろされた映画「リバーズ・エッジ」のストーリー。そして三つ目は歌詞を解釈する聴き手自身のストーリー。つまり僕自身のストーリーです。僕の場合は歌詞に出てくる「ベレー帽の君」が、大好きだけれど手の届かないAさん、とても苦しい時期に手を差し伸べてくれた同じ研究室のBさん、しばらく疎遠にしている間に亡くなってしまったCさんという三人の憧れの先輩に重なりました。たった3分強の曲から膨大な情報量が引き出されて、本当に心が揺さぶられる経験をしました。

 


エンタメだけを消費するとか、そういう偏ったフィクションへの触れ方はもったいないと個人的には思います。人間のあり方が狭まります。紋切り型のあり方でしかいられなくなります。

 


僕が昔親しくしていた人は、純文学的な小説や映像作品全般に対してのリテラシーが無く、エンタメ色の強いドラマや映画としてしかフィクションに触れてこなかった人でした。彼女にとって「努力」というイメージはあまりに漠然としていて、どのように努力すべきかわからない。「恋」も自分の現実とはかけ離れたものを夢見て、「生き方」は皆目不透明。時をかける少女や二重人格の公安としての華々しい生き方は知っていても、今を生きる自分の生き方はわからない。質素な自分の暮らしを肯定できない。といった具合です。

 


本屋に務めているAさんが教えてくれました。いま本屋で一番売れている本はなろう系で、10代から60代までの幅広い年代の方が買いに来られるそうです。「弱者男性」という概念は日本の病理で構造的な問題ですから、本人の資質にのみ還元して論じるべきではないでしょう。でも、そういう本の読み方はだめなんです。紋切り型の美少女や王子様に憧れていては人としてのあり方が限られてきます。もっと現実に即した夢のみかたがあるはずで、その方がもっと多様で美しいのです。

 


ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』では、文学の持つ力として、哲学的な「分析」では到達不可能な、他者の苦痛への「共感」の陶冶が挙げられています。このローティの文学観は僕にとって非常に納得できる物でした。

 


身の回りを見ても、人間の多様なあり方や生き方を否定し、「冗談」の体で差別的な発言をする人は、多くの場合、フィクションを読まない人です。

 


ビジネスライクな表現をすれば、フィクションは他者の苦痛というデータの断片です。データの断片を知らずに、リベラルな言説に触れても、真に理解できないのは当然です。まとまった「分析」に触れて、構造を認識したはいいものの、個々の苦しみを知らないから、「だからなに?」で終わってしまうのです。フィクションを読まない人はデータ不足のため、適切な(倫理的な)判断を下すことが出来ていないのです。

 


つまり、小説を、純文学をもっと多くの人に読んでほしいのです。特にマイノリティの生活の支配権を握る人々、政財界の人々や影響力のある表現者たちには。

 


周りを見ていても頭のいい人はたくさんいます。現状分析力や問題解決能力に長けた優秀な人材は多いです。しかし彼らが真に倫理的かと言われれば、僕はそうだとはいえません。

 


もし、この世界を分断するあり方は正しくないと皆が認識しているのならば、これから必要とされている人材は、他者の苦痛に共感できる人だと僕は思います。

人にやさしく

2021年4月27日に書きかけていた小説があります。「不幸なラクダ」というタイトルです。もう3年近く前に書いたものなので、文章が拙かったり、時々痛々しいのはご愛敬でお願いします。

 

 

 

 

 青春とは、死に場を見つける旅である。

 早々に列車を降り、そこを安住の地と措定して、死に向かって生に勤しむ者もいる。早いからといって、彼が必ずしも優れているわけではない。人は普通、遅かれ早かれ、いつかは死に場を決めなければならないが、だからといって間違った場所で死ぬのは誰だって御免である。死に場を吟味しなくては。そのために旅人には、青春という潤沢な時間と自由が与えられるが、それが高じて、旅人の役得に惑溺し、頑なに列車を降りない者もいる。彼は死に場を青春列車に決めたのだ。

 加賀見克也は列車を降りれない。

 降りないのではなく、降りれないのだ。

 彼には、車窓から覗くどの世界にも、自分が死ぬべき場所は無いように思われた。普通に生まれ普通に育ち、普通に勉強して大学に進学した。これからもきっと普通に働いて、普通に死ぬのだろう。

しかし文字通りのことだが、普通に“特別“は許されない。

人より楽しく死ぬことも、派手に死ぬことも許されない。加賀見に許されるのは、世の中に百万通りある、至って普通の死だけだ。世の中からは認識されず、消えゆく自分の意識でさえ、きっと並一通りの意識であろう。だったら何のために生を消化する? それではあまりに虚しい。あまりにつまらない。

加賀見は耳を澄ませてみた。

 遠くの方で誰かの笑い声が聞こえる。換気扇がカラカラ回る。

荒いコンクリートと靴底が擦れる音を響かせながら、「造反有理」の落書きや反戦反核ポスターで全ての余白を埋め尽くされた両壁に挟まれて廊下を進み、突き当たりの部屋に入った。

「おっ、加賀見くん。帰ってきたね」

 美奈子が一瞥もせず言った。彼女はこたつの上のカセットコンロにかけてある鍋を、おたまでくるくるかき回している。

「鍋あるよ。加賀見くんも食べよ」

 見ると中には薄茶色の汁がたっぷりあって、白菜の切れ端やらくたびれた昆布やら豆腐の残骸やらが所々ぷかぷか浮いているだけだった。

「ほとんど残ってないじゃないですか」

 コートをハンガーに掛けながら言うと、美奈子の隣で鍋奉行らしく腕を組んで鎮座していた小島が、

「おいおい、よく見ろ、食う所なんていっぱいある。肉だって残ってるぞ」

 と菜箸で鍋をかき回し、底の方から鶏肉の皮を引っ張り上げて見せた。

「……まあ、食いますよ。せっかくあるんだし」

「そうか。よし、待ってろ。皿と箸持ってきてやる。ほら、そこどけ」

 小島は扉の傍に突っ立っている加賀見の横を窮屈そうに通り抜けて部屋を出た。

「小島くん、嬉しいんだよ。後輩に食べて貰えて。小島くんの鍋、あんまり評判よくないからさ」

「え、まじですか」

「うん、まじ。でも私はそんなにまずくないと思うんだけどなぁ」

 美奈子は「ここ、座りな」と、左手でこたつ布団をひらりとめくってみせたから、加賀見は彼女の隣に入った。

「……あったかい」

「お疲れ。バイトの飲み会って聞いたよ。にしては早いね? まだ日変わってないけど」

「二次会断ったんです。それでも十時半頃には寮に着くはずだったんですけど。いろいろグダグダってなって」

「ありゃ、参加すれば良かったのに。加賀見くんのコミュ力を上げるチャンスだぞ?」

「いやいや、飲み会の雰囲気がすっごい嫌で」

「あー、居酒屋はねぇ。あんまり合わないって人、多いみたいだよねぇ」

「ええ、俺には合いません。あんなアルハラまみれの職場」

「じゃ、コールとかあったんだ」

「未だにあるのはおかしいですよ。なんていうか、旧態依然というか前近代的というか……」

「だよね、ホントに。世の中ってそういうものだよ」

「世の中、ですか?」

「そう、世の中」

 美奈子は相変わらず鍋をくるくるかき回し続けている。ときどきコンロの火加減を調節しているが、回し続けることに果たして意味があるのか、加賀見は知らない。

 少しの間沈黙が訪れて手持ち無沙汰になる。こたつの上に放置された、持ち主のわからぬ十円玉を指で軽く弾いて回す。

「小島くん、遅いね」

「確かに、遅いですね。見てきましょうか」

「ううん、いいよ。小島くんだもん」

「なるほど」

 とは言ったものの、なにがなるほどなのかは自分でもよくわからない。

「そのバイト、やめた方が良いよ。雰囲気が合わないのは致命的かな」

「やっぱりそうですかね。でも、結構いいとこもあるんですよ。シフトの融通効くし、まとまった休みも取れるし」

「そっか、加賀見くん、塾講とか向いてると思ったんだけどな」

「うーん、やっぱり融通効かないバイトは嫌ですね。まあ、そういうのって俺のわがままかもしれないけど」

「うん、加賀見くんはわがままだ」

 思わず顔を上げると、美奈子は鍋を見つめてくるくるを続けている。

「もちろん加賀見くんだけじゃない。みんなそう。私だって、わがまま。みんなわがまま。特にこの寮に暮らしてる人たちは」

「そうですかね?」

「そうだよ。みんな、いわゆる社会不適合者ってヤツ。そんな人たちがここに集まってくるの。だから私はここが嫌い。私も社会不適合者だから、私が嫌い」

「先輩なんて社会に全然馴染んでるじゃないですか。友達も多そうだし」

「その友達が全然友達なんかじゃなかったとしたら、どう?」

 美奈子はいつの間にや、お玉を手放し、胸を机の縁に押しつけるように突っ伏していた。加賀見が黙っていると、やおら顔を上げ、うつろな目をしてにこりと笑った。

「……先輩。酔ってます?」

 机の上にはビールとチューハイの空き缶が五六個転がっている。美奈子や小島が飲んだものかもしれないし、もっと前から捨てられずに残っていたものかもしれない。

「何に?」

「いや……酒か、自分か、何かに」

「かもね」

 再び沈黙が流れる。加賀見は美奈子といるときの沈黙が気に入っていた。無理に会話を続ける必要がない沈黙。ただ双方の間に、音の応酬がないと言うだけで、コミュニケーションは続いている。美奈子の飄然とした態度に倦怠の色が差す瞬間、彼女はうつろな目を見せる。それからの沈黙は、すこし厭世的な気を纏う。この時間が、加賀見にとって心地よい。

「ねえ、加賀見くん。ラクダの寓話って知ってるかな?」

「なんですか、それ」

「同じ農場で生まれた二匹のラクダの話。生まれてから、ろくに餌ももらえず、ずっと働かされてきた二匹のラクダが、一匹は金持ちの商人に、もう一匹は貧しい農家に買い取られるの。金持ちの方のラクダは、たくさん餌をもらって、ミルクもたっぷりもらって、仕事も楽で簡単なものばかり。とっても幸せ。でも、貧しい方は、相変わらず餌はもらえず、ずっと働かされっぱなし。そんな二匹が市場でばったり再会するの。金持ちラクダはは貧しいラクダを見て、お前は不幸だ、俺の方が幸せだって言うんだ。すると貧しいラクダはこう返すの。幸せってなあに? って」

「先輩。それ、ラクダじゃなくてロバだったような気がします」

「あれ? そうだっけ。まあどっちでも良いよ。ロバでもヤギでも。でもさ、この話って結局、幸せを知ってるから不幸がわかるって話でしょ? 金持ちロバはいま幸せだから、あの時は不幸だったんだなって思い返せる。貧しいロバは端から見れば、ずっと不幸かもしれないけれど、幸せを知らないから特別不幸だなんて思わない。それに金持ちのロバだって、これから先の長い時間をかけて幸せに慣れて、いつか不幸だった日のことを忘れちゃえば、もう幸せじゃなくなる」

「友達が多いのは幸せのはずだけど、もう慣れて幸せに感じられなくなった、ってことですか?」

「私が金持ちのロバだなんて言いたいわけじゃないよ。ロバの寓話は一般論。私が言いたいのは、幸せも不幸も一対で不可分の存在のはずだってこと。幸せでもどこかに不幸はあるはずだし、いくら不幸に見えても幸せは必ず隠れてる。隠れてるはず、だよね? それが私には見えないんだ。私はきっと、とんでもなく幸せだったんだ。でもそれを忘れて、その記憶が消えていて、でもどこかでやっぱり覚えていて、それがとてつもなく、つらい。私は、貧しくて不幸なラクダなんだ」

「やっぱり先輩は金持ちのロバですよ。先輩ほど面白い人生は無いじゃないですか。俺みたいなつまらない人生なんかより、よっぽど……」

「つまるつまらないの話じゃないんだよー」

 こたつの下で美奈子が脚を伸ばすと、崩していた加賀見の右脚に当たって乗り越えた。加賀見は右脚の上に、美奈子のふくらはぎの柔らかさを感じた。思わず照れくさくなって、脚を引っ込めて後悔する。

 美奈子はケラケラ笑って、

「加賀見くんは自分の人生をつまらないなんて言っちゃダメだよ。ね、面白いでしょ。君の人生」

 

(以下、省略)

 

 

この話は自分の実体験が基になっていて、小島も美奈子も現実の俺の先輩をモデルにした人です。もちろん名前は変えてますが。

 

この話を書こうと思ったきっかけは今でも覚えています。俺が一回生のころ、居酒屋のバイトで強烈なアルハラとセクハラを目の当たりして寮に帰ってきた時、部屋で小島さんと美奈子さんが鍋をしていました。その二人が俺に鍋を食わせてくれて、俺はバイトの愚痴を吐き出しました。二人は俺の話をきちんと聞いてくれて、優しい言葉をかけてくれました。俺がまだ寮に馴染めていなかった頃です。俺は二人の優しさに救われました。

 

この物語中の会話がどれほど現実に基づいたものなのかは正確には覚えてません。「飲食ってそんなもんだよ」とか「そのバイトが合わないって思うならやめた方がいい」みたいなことを簡単に話しただけだったとは思います。

 

美奈子さんは少しアンニュイに描いていますが、現実はもっと快活な人、本当にやさしい人でした。みんなから好かれる先輩でした。もちろん俺も大好きな人です。大好きだからこの話を物語にしたいと思ったんです。

 

俺が2回生に上がるとき、美奈子さんは就職して寮を出て行きました。それから関わりはなくなってしまい、彼女が時々寮に遊びに来てるのを見かけることはありましたが、話しかけることはありませんでした。

 

そのうちに美奈子さんを思い出すことはほとんどなくなり、俺もこんな小説を書きかけていたことすら忘れていました。

 

昨日の夜、美奈子さんの訃報を聞きました。職場の人間関係に悩んでいたそうで、自殺されたとのことです。

 

俺はショックでした。言葉足らずですが、ショックとか悲しいとか、それしかいえません。

 

繰り返しになりますが、彼女はほんとうにやさしい人でした。彼女が自殺しなければいけない社会っていうのはどう考えても間違っている。100パーセント社会が悪い。今の社会は明らかに間違っています。

 

現状肯定はいけません。なんだかんだ世の中良い方向に向かってる、と楽観視してはいけません。常に抗い続けましょう。一人一人がやさしい人になりましょう。俺もやさしい人になりますから。

社会のはみ出しものは自己変革を目指す

 ご無沙汰しております。厭世居士こと天燈鬼です。

 

 前回の記事ではすこし暴れてしまいました。すみません。最近は躁鬱気味でいろいろ大変だったのですが、なんだか自分のメンタルの扱い方にようやく慣れてきました。ご心配をおかけしました。

 

 相変わらず卒論は鋭意執筆中なわけですが、先日、能を観る機会があって少し見に行って参りました。演目は楊貴妃玄宗皇帝の命を受けた方士、常世の国に暮らす楊貴妃を訪ねるという展開です。

 能は伝統芸能の中でも特に難解なものとして有名ですけれども、実際に観てみると想像以上に退屈なもので驚きました。とにかくまあ、何を言っているのかさっぱりわからないわけです。わけがわからないまま1時間半ほどの時間がすぎてゆくのです。ふと会場を見渡してみると、多くの観客がパンフレットに目を落としているのか居眠りしているのかわからない格好で下を向いていました。ああ、こりゃ皆わかってないや……って感じですね。

 こうなってくると少し心配になってくるのは伝統芸能としての存続、という問題です。

 文化の継承という観点で大事になってくるのは、文化はそれ自体に価値がある思想、つまり功利的・道徳的価値がなくとも人間の営みそれ自体に重要な価値があるという思想でしょう。こういう思想というか感覚は自分も持っているし、一般大衆はともかく知的エリートの大半は幸いにもそういう感覚を持っているのだと思います。

 ただ、文化の(受け手としての)担い手である知的エリート(伝統文化に対して寛容で、若干の素養を持っているという意味で)がさっぱり内容を理解できないという事態は、文化維持のモチベーションを考えてゆく上では能は危険かなと、個々人の能に対する意識は他に比べて弱くなってしまうのかな、と思います。俺には良さはわからなかったけど、無くならないで欲しい、という感覚です。まさにそういう感覚しか浮かび上がってきませんけど。

 

 能を見ている間、あまりに退屈だったので何か別のことを考えるわけですが、ふと高校の同級生のK君を思い出しました。この夏、K君が関西に遊びに来たときに一緒に大阪で遊んだことがあったのですが、その際、俺が金欠にもかかわらず散々食べ歩きに連れ回して時には奢らせた挙げ句、自分だけ風俗に行ったことがありました。そんな記憶を何故か急に思い出してものすごく腹が立ってきたのです。

 家賃4300円の下宿に住んでいる奴が翌日18きっぷを使って帰省する、という状況からその裏側にある金欠という感覚を導き出せない貧弱な想像力。おそらく貧困という問題を今まで一切考えることのない生活をしてきたからでしょう(本記事にはルサンチマン成分が大いに入ってます。最近自分はその傾向が強い)。むしろ奢らせるというところ、客人扱いをさせるところ、彼の言動の節々から感じたのは、俺を下に見ているな、という感覚でした。自分の京大生という属性すら、頭が良い=話の通じないおかしな宇宙人、と捉えられているような感じも受けました。高校の頃はあんなに仲良く話してたのにな。俺からすればまともに会話が出来なくなったのはお前じゃないかと言いたくなります。

 彼は自分が働いている会社が中央アジアや南米で、地元の労働者をどう扱っているのか知っているのでしょうか。見えないところに負担を押しつけ、目に見える形で自分を着飾る企業の搾取構造をどの程度理解しているのかと思います。 

 当然、事実として知ってはいるのでしょうが、一体どういう感覚を持っているのか気になります。無視をしているのか、気の毒に思っているのか、申し訳なく思っているのか。

 実際の所、自分の思想と言動を一致させることは難しいです。絶対に何かしらの矛盾は生まれますし、大きな社会構造に立ち向かう勇気がある人は極めて少ないでしょう。ただ、すくなくとも何かしらの思いを馳せておくべきだと俺は思うし、そうしないと何か決断を迫られるという事態に際して、現状維持という選択しか取れなくなる。そういうことはビジネスとか経営とか倫理とかを抜きに考えても、頭の悪さを感じてしまって俺は嫌だ。

 まあ色々と憶測で語ってしまいましたが、つまりは他人への配慮が足りない、ということです。

 

 下に見られているという感覚は、俺の被害妄想も少なからずあるかも知れません。ただ、それを感じてしまっている以上、俺は彼と付き合う価値はないと感じました。つまり縁を切ろうと思っていて、それがすんなり心の中で受け入れられたということです。

 俺は昔、というか数ヶ月前まで、出会いは縁だと思っていました。つまり自分の友人というのは、学校で席が隣だったとか偶然同じ部活だったとか、そういう些細なきっかけによって生じる関係性とみていたわけです。極論、関係性よりもきっかけの方が本質、という感覚で、何らかきっかけを持ってしまった以上、友人には寄り添うべきだし、ある程度自分を変えてでも付き合っていくことが良いことだと考えていました。

 いまから考えると馬鹿馬鹿しい考えです。いまのおれにとって高校で唯一の親友と言えるのがヤマザキです。ヤマザキは「友人」であることに価値があるのではなく、「ヤマザキ」であることに価値があります。そして、ヤマザキは何か俺に資するものを提供してくれるから価値があるのではなくて、俺もヤマザキも互いに嫌なところとか軽蔑してるところはあるでしょうけど、それでもやっぱりそれなりにリスペクトやシンパシーを感じているから価値があるのです。

 

 そういうわけで、俺はK君に対してリスペクトもシンパシーも持てない、ということに気がつきました。だから俺は彼を友達とは思わないことにします。もちろん、嫌いになったわけではないし、またどこかで話せば意気投合するかもしれません。ただ、ひとまずこの結論が俺の中で腑に落ちてしまって、これから彼を思い出すことはないだろうなと思います。

 

 

 さて、退屈の間にいろいろな考えを巡らせることになった能、ほとんど理解不能だった能ですけれど、一つだけ心が動かされたところがあります。

 それは引き際。音楽の中、舞い終えた楊貴妃が宮中にうずくまって涙を流す。音楽が止まる。楊貴妃は立ち上がり、宮中を出て一人ゆっくり舞台袖へ向かう。残された囃子たちも、やがて丁寧に道具の後始末をすると、足並みをそろえて袖へと捌けてゆく。

 能にはここが終幕、という合図がないのです。舞台の終わりは瞬間的に訪れるのではなく、時間をかけて終わるのです。フィクションの世界から現実へとなめらかに引き戻されてゆく間、それぞれの観客は俺のように、それぞれの考え事を結着させることが出来たでしょうか。俺のように、舞台の端にひっそりと帰っていく楊貴妃の孤独に思いを馳せていたりするのでしょうか。

2023/12/15

ご無沙汰しております。厭世居士です。

 

近況報告ですが、遂に今日、卒業論文が完成致しました!いやー、この数ヶ月、執筆までの道のりは艱難辛苦を極めるものでした。朝は鶏が時を告げる前に目を覚まし、座禅とヨガで乱れた精神を浄化するところから始まります。それから下宿の裏山からギラリと光る黒曜石を掘り出し、鋭く立派な矢尻に仕立てあげるのです。鴨川を旋回するトンビ目掛けて弓を引き、仕留めることが出来たらそれが朝食です。昼間はひたすら克己勉励。ひたすら執筆を重ねた結果、右手の中指に出来たペンだこは数知れず。それらは毎度気付けば大きく腫れ上がり、爆発してはテロリズムに打ちひしがれる現代西欧社会の如く、私の右手はあらゆる機能を失ってしまうのです。そんな晩には、私は読書に専念しました。ろうそくに小さな火を灯し、窓の外に雪が降り積もるのを眺めながら、薄茶けたホコリの匂いのするページをひたすらにめくっていたのでした。いやぁ、懐かしいものですなあ。

 

さて、卒業論文ですが、今回方法論としては私の専攻する日本考古学の通例に則ることはせず、現代社会学の実践方法すなわち生活史の現象学的聞き取り調査を選択致しました。テーマは「村上春樹が好きな女に関する基礎的考察」と題し、当事者に対するインタビューを重ねていきました。

第一章では先行研究を比較し、村上春樹が描く女性像を現在のジェンダー観で分析することの不当性を明らかにした上で、村上春樹が好きな女のだらしないけどかわいらしい感じを問題意識として提示します。

第二章では村上春樹が好きな女の持つ諸特徴を純潔性と淫乱性に分類・整理した後、それらの諸特徴が男子大学生の心象においてどのように位置づけられるのかをを検討しました。

第三章では前章の理論付けとして「村上春樹のフィードバック効果」を提唱ました。村上春樹が読者に淫乱性を付与し、また一方で淫乱性を備えた読者が村上春樹を読みたがる傾向を指摘することで、彼女が村上春樹を読むのは村上春樹を読むからだ、という古来からある「村上春樹パラドックス」に対する解答的予察を提示できたと思います。

第四章は上の三章をまとめたのち、村上春樹の読者の広がり方を「伝播型」ではなく「憧憬型」である事実を提示します。村上春樹が好きな女に憧れて村上春樹を読み、村上春樹の淫乱性の毒気に当てられて命を落とす男子大学生が後を絶たない世界情勢に警鐘を鳴らしました。

 

我ながら良い感じにまとまった良い構成だったと思います(自慢)。さて、まあ論文も書き終わったし、一段落です。これで年末ゆっくり出来ますね。とはいえ年末までにやらなければならないことも少なからずあって、こんなクソ記事を書いてる暇を削ってきちんと卒業論文を書き上げなければならないわけです。やんなっちゃうよ、ホントに、もう。嗚呼、疾風怒濤の青春よ。私をどこへ連れて行く。

 

厭世居士 なんか俺、感情ってものを通り越した気ぃするわ。なんていうか、無、みたいな。とかゆうてますけども……

厭世居士徒然草

 

 

 

   おい画面固まってるのにファンの音けたたましいな今の俺かよ

 

 

 

   掴まれり小さな手形ふかふかのジャケット着れば昨日みたいに

 

 

 

   うさぎ年可愛い君は勉強も恋も孝行もおれよりしてる

 

 

 

   童貞の対偶みたいな君が何故オードリーとか伯山を聴く

 

 

厭世居士 未だに生き方がわからない。なのに大人の精神になってしまう。おれは何もわからないのに。子どもの俺が死ぬ。おれはなにもわからないのに。

厭世居士旅愁歌恋愛歌五選

 

   とりあえず南に下るか広島の読み方知らぬ駅の地図手に

 

 

 

   空を焼くピンクと雲のストライプ運ぶ波より疾く往け呉線

 

 

 

   やわらかい珈琲色の鶴の羽広げる前に君来たるかな

 

 

 

   貸し借りは男女を繋ぐ桎梏と書かれた本を君から受け取る

 

 

 

   君の星空のメタファーに僕の知る物理が物理じゃ無くなりにけり

 

 

 

厭世居士  思考を委ねてはいけない。判断を委ねてはいけない。と、思う日々、有効期限付の繰り返しの日々。俺は君の好きな猫になりたい。高望みはしないから。

 

君と見に行った図書館裏の猫、ここ数日姿を見せてない。こんなこと今までなかったのに。たぶん死んだよ。幸せだったよ、きっと。みんなに幸せを振りまいてくれてありがとう。君を撫でている時間はすごく好きだった。さようなら。俺はもう一生センチメンタルにはならない。強く生きるよ。