Nara de Rock'n'Roll 3rd

京都の大学生の独り言……

氷室京介と消費社会批判

商業主義の匂い
氷室京介が表舞台から姿を消して早くも十年が経とうとしているが、未だに数多くのファンがいる。ある者はコピバンを組んでBOOWYの楽曲を演奏してみたり、YouTubeのライブ映像に心動かされてコメントを書き残してみたり、その形は様々ではあるけれど、私にとってどうもひっかかるのが、未だに氷室やBOOWYの映像やグッズを小出しに売り出し、最近でも新たにファンクラブを新設するとか言ってそのファンから小銭を巻き上げようとする氷室周囲の商業的な匂いである。金銭という形でアーティストを応援することはもちろん間違ったことではないし、「推し活」行為それ自体の是非をここで論じるつもりもない。私が本稿で試みるのは、批評の文脈で氷室京介を語ることである。しかし、その道中において「商業主義の匂い」と「氷室京介」との間にはなにかしらの親和性が感じられることを示しておきたい。

 

 

BOOWYの記号的な魅力
手がかりにBOOWY時代の氷室作詞曲”JUSTY”を取り上げたい。歌詞を見てもらえればわかることだが、ここには何らの物語も含まない。少なくとも、読解できない。そこにあるのは意味不明な外来語の羅列のみである。批評的な言葉に換言すれば、JUSTYの歌詞においてはシニフィエ(意味されるもの)とシニフィアン(意味するもの)の不一致が看取できる。彷彿とさせるのは田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』だ。1981年に出版された本書はブランド名や固有名を列挙し、それに大量の注釈をつけること消費社会を文学的に示したものである。

 

ボードリヤールが喝破したようにポストモダンの世界では、モノ本来に内包される使用価値や貨幣的な交換価値とは別に、ブランド品のような実体を伴わない(=シニフィエシニフィアンとが一致しない)「記号的消費」がなされる。この点JUSTYは実に記号的な楽曲と評価できよう。そして本来パンクバンドであったBOOWY=氷室にJUSTYを書かせたのは、『なんとなく、クリスタル』の舞台であり、フェリックス・ガタリが記号に溢れているとした*1、そしてロラン・バルトに「表徴の帝国」を見いださせた、80年代の記号都市”東京”なのである。そして付け加えなければならないのは、JUSTYの歌詞は布袋のメロディーに乗せる記号としては最高峰のワードセンスなのであり、その耳さわりの良さ、キャッチーさにおいてBOOWYの屈指の最高傑作と私は考えている。

 

 

隠し持っていた政治性・思想性とその放棄
しかしBOOWY解散後、氷室は自ら歌詞を書くことをやめ、作詞の多くを作詞家に外注するようになる。これはすなわち氷室の関心が「思想性や政治性を欠いた、漂白されたものとしての音楽」に傾いたためである。


実際のところ、BOOWY時代の彼は記号的な歌詞を書きながら、その内実は政治的・思想的な試みに挑戦し続けていた。”1994-LABEL OF COMPLEX-”ではファシズム的世界観の蔓延するディストピアを描いているし、ライブ”1224”では開始前には映像に合わせて「NO WAR」「NO AIDS」「SEX」の文字を示している。Justyにおいても「マーマレードな恋だからフェミニストのままじゃいられない」の一節は、1982年に『セクシィ・ギャルの大研究』でメディアデビューした上野千鶴子によって喧伝されたワード「フェミニズム」を踏まえたものであろう。このように氷室はファシズム(詳細は後述)や「性とりわけ女性性」への関心は持ち続けていた。


それでは彼は自らの政治性・思想性をなぜ放棄するに至ったか。彼がインタビューで語るところにはパンク時代のBOOWYの楽曲”SCHOOL OUT”を聞いて高校を退学したという旨のファンレターを受け取り、歌詞の持つ影響力に衝撃を受けたためとのことである(氷室のインタビュー等に関しては詳しい方がNoteでまとめているのでそちらを参照されたい)。この発言を氷室が歌詞の持つ重みを軽視していたと解釈すべきではない。上述したように氷室は少なくとも自身の政治的・思想的関心を歌詞として表出しようとするくらいには歌詞に力を入れていたはずだ。そうではなくて、ここには氷室とファンとの間の認識の乖離がある。「好きなバンドが退学を歌うから退学する」という短絡的思考回路に絶望したのであろう。


そもそも氷室が少年時代を過ごしたのは、70年代の群馬県倉賀野である。連合赤軍による「山岳ベース事件」「あさま山荘事件」は彼の暮らした半径20㎞県内で起こった事件である。当時11才だった氷室少年がこの事件をどのように見ていたのかはわからない。彼が連合赤軍に対して抱く感情がポジティブであれ、ネガティブであれ、あるいは無関心であったとしても、彼が少年時代を過ごした70年代の中部高地とはこういう政治性を帯びた場所であった。一方で、BOOWYのファンの多くを占めていた80年代の女の子とは、大塚英志によればイノセントさを求めるウブな女の子である。昭和天皇を「かわいい」と表現し、岡田有希子の死や尾崎豊の逮捕に接して神格化してしまう、単純な女の子である*2。氷室の政治性・思想性はファンには伝わらず、記号論的に消費される。

 

邦ロックにおける記号論的表現の定着
BOOWYによって記号論的表現が確立されために、日本ロックはサブカル化する。(宮沢章夫は政治性が漂白されるために上位文化/下位文化の二項対立が崩壊したポストモダン的「サブカルチャー」を区別して「サブカル」と表現する*3)そして、BOOWY解散後サブカル化した日本ロックは、ちょうどアニメ・ゲーム業界における状況と軌を一にして*4、表現におけるデータベースが蓄積してゆく。すなわち、「邦ロックっぽい歌詞」というものが90年代を通して共通理解になってゆくのだが、氷室はむしろその枠組みに組み込まれてしまう。極端なことを言えば、解散後の氷室がどこか鮮烈さを欠いているのは、自らが作り上げた「邦ロック」という記号論的共通観念の主導者が彼の後輩に移り、その後追いをしているからのようにも思える。

 

 

画期としてのNEO FASCIO
氷室が作詞の殆どを他人に任せるようになったのは、ソロ独立後のセカンドアルバム”NEO FASCIO”以降である。すなわち、NEO FASCIOは氷室の政治性・思想性の決別宣言と評価できよう。その極度に政治的なタイトルこそが逆説的にその決別をよく表している。”1994-LABEL OF COMPLEX-”では曲がりなりにも直接的に向き合っていたファシズムというテーマが、”NEO FASCIO”では男女関係に落とし込まれて(しかも他人の言葉で)語られる。これに関してもう一点の事例を加えたい。前作“FLOWERS for ALGERNON”では、”ANGEL”や”ROXY”をはじめ、基本的には氷室作詞の楽曲である。すなわちこの時点の氷室はBOOWY時代と連続して捉えられるのだが、唯一”独りファシズム”のみ、泉谷しげるに作詞を任せている。すなわち、”独りファシズム”から”NEO FASCIO”にかけての間に、自らの手で政治性・思想性を発信することをやめ、男女関係に落とし込むことで「ファッショ」というワードからシニフィエを剥落させ、記号として消費している。すなわち氷室は自身の政治性・思想性を、本人としては克服したかったであろう記号的な消費としておざなりに決別してしまっているのである。以後、彼の関心は「漂白された音楽」に向かうこととなる。


しかしここで氷室が安易にも手放してしまった政治性・思想性こそが、彼の人間的な魅力であったと私は思う。正直いうと、BOOWY時代に表象された彼の性への関心などは浅薄で痛々しいところもある。中二病的と言ってしまって良いだろう。だが、その野暮ったいながらにも、何か大きな物語に自らを組み込もうとする彼の野望や愛らしさを感じるもので、そのある意味「群馬の血」といってもよいものこそが、BOOWYと氷室ソロとを隔てる大きな差異なのかもしれない。加えて作詞をやめるというのは、氷室における最大の武器である(JUSTYに見えるような)記号的配置すなわちキャッチーなワードセンスを手放すことを意味する。意味を成さない無秩序な(シュールレアリズム的と言って良いかもしれないが)記号配置は天才的な氷室の手によるものだから魅力的なのであって、他者の並べた記号に鮮やかさはない。


ともかく氷室は「記号的な世界観を受け入れる」一方で「その記号のコントロールを他人の手に委ねる」ことにした。冒頭に戻ると、「商業主義の匂い」と「氷室京介」との間にある親和性はここに浮上する。氷室京介というブランドによって(実体的価値を持たない記号的な)高額な商品やサービスを展開しつつ、その展開は彼周囲のスタッフの手によってなされ、氷室本人の意志は全く感じられない。すなわち現在の氷室を取り巻く現状への違和感は、「群馬の血」と決別したNEO FASCIO以降の違和感とも通底するものがあるのではないかと考える。

*1:フェリックス・ガタリ1986『東京劇場―ガタリ、東京を行く』エスクァイアマガジンジャパン

*2:大塚英志2003『少女たちの「かわいい」天皇: サブカルチャー天皇論 』角川書店

*3:宮沢章夫2017「サブカルチャーについてもう一度考えてみる」『NHKニッポン戦後サブカルチャー史:深掘り進化論』NHK出版

*4:東浩紀2001『動物化するポストモダン講談社

2025年の目標

こんにちは。

 

今年の目標を書いてみようと思います。来年の今の時期に軽く振り返ることができたら良いかなと思います。

 

【生活面】経済的な主体になる

経済的に自立する、と書きたいところですが、就職しない限り無理なので抽象的な言葉遣いになってしまいました。私の今のお財布事情を暴露しますと、バイト代と定額の仕送りという二つの主な収入源があるわけですが、今年はバイトも入ったり入らなかったり、出費もかさむときもあったりなかったりで、仕送りに色を付けてくれるようせがむことが多い一年でした。

今は来月の旅行のために単発バイトに入りまくったおかげで、口座にそれなりの金額が入っているのですが、貧乏な時と比べて心の余裕度がまるで違います。僕は元来温厚な方なのですが、経済的に追い込まれているとピリついてしまうことがあるんですよね。(そう考えるとやっぱり僕は定職に就いた方が良い人間ですね。彼女のヒモルートも少しばかり考えてましたが……)

というわけで、今年は支出と収入をきちんと把握し、余裕あるお金の使い方をしようと心がけました。

 

【文化面】批評を12冊精読する

実はこれまでの大学生活、あまり批評はきちんと読んできませんでした。割に批評家の名前だけ下手に知ってしまっているような状況なので、意見を求められて浅いコメントしか残せず、微妙な空気にしてしまうことが多々ありました。なので月一ペースくらいで小林秀雄とか江藤淳とか、そのあたりの王道をじっくり読んでいこうかなと考えてます。時間が許せば書評をこのブログに書きます。

 

【言語面】フランス語に毎日触れる

実は去年の12月くらいからちまちま勉強しております。フランスの映画も文学も哲学も結構好きなので、いつか原文で読めたらなと思ってます。抽象的かつ激低なハードルなので、僕にしては珍しく50日くらいはルーティンを継続できていて、このまま一年間続けられたら嬉しいです。

ドゥルーズとかフーコーとか、以外とそのあたりの哲学者も簡単な単語で構成されている文を残していて、辞書を引きながらですけどそれなりに読めるようにはなってきました。そして日本語だと厳めしい単語も、案外原文だと基礎単語なんだなと気づいてきました(「生成変化」=devenirなど)。言語は継続が一番大事だと思うので(たぶん)ゆるく続けていきたいですね。

 

【学術面】発表できるレベルの修論を書く

卒論では中間発表の〆切が1週間前ぐらいに近づくたびに、徹夜して研究進めて、発表終わったら堕落してを繰り返していたので、修論では定期的な研究を心がけたいです。

2024年に観た映画を振り変える

新年あけましておめでとうございます。

 

正月のノリで少しだらっとしていたらもう1月も半ばで、何によるかもわからない焦りに駆られております。

 

昨年は色々と充実した一年だった(と個人的には捉えていますが)、特に色々な文化に触れることが出来たのが一番良かったなと。小説やら批評やらも乱読していましたが、特に映画を沢山観た年でした。数えてみたら61作だったので、気軽に楽しむ程度の範囲では結構観た方じゃないかと思います。

 

そこで、2024年に観た映画を(旧作だけですが)振り返って個人的なベスト10を決めてみました。一応、ネタバレは極力控えます。順番は適当なのでランキングではないです。

 

1,『リバーズ・エッジ』 2018年 監督:行定勲 原作:岡崎京子

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若者の堕落と退廃は古くからフィクションで語られてきた主題だと思うのですが、どうしても時代性を帯びてしまうのが評価の難しいところですよね。そうした作品って月日の経過とともに見る目が厳しくなってきて、厳しい批評をくぐり抜けたその先、真に洗練された作品だけが名作として残り続けゆくわけです。

この原作も紛れもなくその名作に当たるので当然面白いわけですなんですけど、この映画の肝は90年代の作品を2010年代も後半になって映画化したところだと個人的には思うのです。

90年代の世界観でファッションや言葉遣いは厳密ではあるんだけれど(そもそもコマ割りや髪型などの原作の再現度には、かなりのこだわりがありそう)、映像は最新の綺麗な画質で、役者も今をときめく二人が主演を演じていたから、そこに違和感が生まれている。その違和感がむしろ作品世界の不気味さというか、倫理観が転倒してゆく感じを上手く表出していたなあと思います。たぶん原作唯一の改編箇所である、インタビュー風映像の挿話も、リアルとフィクションの境界を曖昧にしようという意図があると感じました。

個人的に印象的だったのは観音崎君という不良の男の子。知能の低さから来る道徳の欠落感が個人的には小学校の友達を思い出してキツッって思ってたわけですけど、彼よりも「まとも」なはずの主人公達に対峙したときにその倫理観が逆転して、いっぱいいっぱいになってしまう感じが結構グロテスクでした。

自分の認識論が揺らぐ感覚といえば大げさだけれど、現代アートの美術館で空間展示作品に入って出たときに感じる「なんか変な感じだったなぁ」って感覚に近いものを覚える作品です。

 

 

2,『自転車泥棒』 1948年 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ

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呉明益という作家の同名小説を読んでいて、タイトルの引用元が気になって見始めました。どちらの物語も、自転車の持つ価値がかなり大きい時代背景に設定されていて、値段的にも自家用車レベルで仕事の必需品としての側面もあるので、自転車を盗まれたら本当に生活が立ちゆかなくなるのです。

この映画は自転車を盗まれた父親の、取り返そうとして奮闘する姿や子供に対して見せる見栄、そして流す涙が印象的です。

父親の情けない姿って見ていられないし、自分が父親になったとしても見せたくないですよね。それは親としてのプライド云々というよりも、親子の関係性が崩れてしまうほどの衝撃を与えかねないと思うのです。私も父親がうつ病になったことがありまして、そのときにふと聞いてしまった父親の独り言の弱々しさや、疲れ果てた溜息は、子供ながらにショックが大きかったです。

個人的には父親よりも子供の方に感情移入してしまう。そんな映画でした。

 

3,『東京物語』 1953年 監督:小津安二郎

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ドラえもん』でのび太のお婆ちゃんが出てくるシーンがやけに印象に残るのは、普段ののび太の世界、近未来の秘密道具やら学校の瑣事やらジャイアンのいじめやらで構成される世界に登場しないから。だからこそ、お婆ちゃんはのび太にとって帰ってくる場所というか、普段の生活をよく頑張って生きているねと褒めてくれる場所というか、抱擁と肯定の場所だと思うのです。

別の例を挙げれば、『坊っちゃん』という漱石のギャグを物語たらしめているのは、話の前後で挟み込んでいる「抱擁と肯定の場所」としての清の説話です。その帰る場所があるからこそ、「坊っちゃん」は思う存分大暴れできるし、そのコミカルな姿を清の説話の中でクールダウンさせることが出来るのです。

この映画は、息子家族の日常が確立している東京の世界に「抱擁と肯定の場所」たる老夫婦が闖入してくる物語。また同時にその場所は、家族から離れ仕事の世界や遊びの世界に浸ることで忙しい日々に追われる我々視聴者の世界にまで入り込んでくるのです。だから感動するのです。

(余談ですが、『三四郎』の主題を思い出しました。三四郎は勉強の世界にも遊びの世界にも入れず宙ぶらりんなキャンパスライフを送るわけですけれど、どちらにせよ家族の世界から独立する、というのが近代以降の大人のあるべき姿とされてきました)

これを期に小津作品を見まくりましたが、俺は結局小津が好きと言うより、小津作品に出てくる笠智衆東京物語ではお爺ちゃん役の俳優)が好きなんですよね。どことなく死んだ祖父に似ているからかも知れません。「国民のお父さん」なんて愛称もあったくらいの名優ですから、やはり多くの人は帰るべき場所として小津映画を見ていたのかなと思います。

 

 

4,『マグノリア』 2000年 監督:ポール・トーマス・アンダーソン

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俺のどうも涙腺が弱い部分が「評価されない頑張りがどこかで報われる」というある種陳腐な筋書きなんです。

(俺が泣いたことがあるフィクションは覚えている限りは二つだけ。映画『ファブル』とゲーム『龍が如く0』です。どちらも裏社会の食い物にされた女の子が、顔もわからないヒーローによって助けられるというお話です。ベタじゃんと思うかもですが、そのベタがめちゃめちゃ個人的には刺さります)

つまり張り詰めた緊張が最後に優しく弛緩するカタルシスに弱いわけです。

マグノリア』は群像劇で、それぞれが悩み葛藤し、話が繋がり合います。そしてその繋がりは必然性に酔って結びつけられるのと同時に、そこには大きな偶然の要素が入り込んでくるわけです。ふと窓辺に目をやると雪が降り積もるのを見つけて心躍るように、不意に訪れる大きな偶然は、心の一番感情的な部分を刺激するのかなと思います。

 

5,『ドロステのはてで僕ら』 2020年 監督:山口淳太 脚本:上田誠

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純粋にSFとしてとして面白い作品です。ユーモラスな雰囲気に対して緻密な構成で、その作り込み具合に作り手の映画愛を感じます。それとワンカットでの撮影は役者の人間味が感じられて俺は結構好きです。この点で、おすすめに挙げるなら同じヨーロッパ企画の『リバー、流れないでよ』よりもこっちかな。どちらも面白いけれど。

コメディなのでどうしても感想が短くなってしまいますが、とにかく面白い。短いので是非見てみてほしいです。

 

6,『生きる』 1952年 監督:黒澤明

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主演の志村喬の演技が凄すぎる。色々とリメイクされている作品だけれど、原作は絶対に超えられないだろうなと。もちろん筋書きもめちゃめちゃ面白いのだけれど、志村演じる渡辺の生き方を見せる映画だから、役者の存在感はあまりに大きい。

印象的なのが、「渡辺さんの熱意が伝わらなかったら、この世の中闇ですよ」という渡辺の生き方を擁護する声に対して、ただ一言「闇だよ」と一笑するシーンです。残酷なユーモアですが、世の中ってこういう冷笑的な奴らばかりだよなぁ、とも思います。

一生懸命に生きるに生きる不器用な生き方。それによって眉をひそめられても、それでもそのひたむきさは確実に美しいものです。正直俺はそこまで不器用な生き方ではなかったけれど、器用に生きてきたとも思えない。下手な生き方を生きる人を否定はしない、しかし生き方を探して足掻く在り方を肯定する作品のメッセージにはどうしても心揺さぶられます。

 

 

7,『モテキ』 2011年 監督:大根仁

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全童貞に刺さる映画。熱烈に片思いをしたことがある男性は是非一度見てみてほしい。友人と一緒にアマプラで見ていたのですが、共感性羞恥がキツすぎて一時停止して悶絶してを繰り返していました。

色々響くところはあったのですが、「仮にその子とセックスできたとして、その子はあなたのものにはならないよ」的な台詞が個人的に刺さりました。

結局、男性の性的魅力という本来は不得手で避けてきたはずの要素にいつの間にか帰着してしまう思考や、たった一度の行為で女性を心理的にコントロールできてしまうんだという無意識的な加害意識。弱者男性の弱者男性たる所以というか、本来フェミニズムと相性が良いはずの低テストステロン系男子がなぜモテないのかという問題とも関わってきて、割と結構身につまされる思いで見ていました。

 

8,『街のあかり』 2006年 監督:アキ・カウリスマキ

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カウリスマキ作品は初めて見るとあまりに洗練されていて衝撃を受けると思います。BGMもほとんど無いし、表情の変化や抑揚もほとんど無く、ぽつりぽつりと淡泊な台詞を交わすのみ。しかし、その静けさが市井の人々のリアルだと思うし、逆説的だけれど愛情や怒りやロマンスといった感情の内なる高まりが穏やかな表面の下に流れているのを感じられます。

正直カウリスマキ作品でどれを選ぶかは非常に迷った。『真夜中の虹』は一番最初に見た作品で思い入れは強いし、『ル・アーブルの靴磨き』は話の展開が大きくて感動的な筋書きでエンタメとして面白いです。ただ、カウリスマキの良さは、やはり淡泊な雰囲気と何気なく差し込まれるユーモアだと思います。

(ユーモラスな側面を強調した『レニングラードカウボーイズ』シリーズはめちゃめちゃ面白い。漱石と『吾輩は猫である』と同じで、小市民のともすれば鬱々とした雰囲気に差し込まれるユーモアは、つい笑ってしまう)

なので悲劇的且つコミカルな愛らしい人物をカウリスマキらしい静的な絵で表現されているこれを選びました。

 

9,『鳥』 1963年 監督:アルフレッド・ヒッチコック

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流石、ヒッチコック、これは映画批評の対象になるなという感じです。純粋にストーリーも凝っているし、60年の時を経てなおエンタメ的にもパニック映画としてもちゃんと楽しめます。そして何よりメタファーや作品構造の読み解きが面白い。パズルのような感覚で観れてしまいます。友達と一緒に見て考察するのが面白いかもしれないです。

 

10,『羅生門』 1950年 監督:黒澤明

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これも『鳥』と同じく考察が捗る系。物語の構造や心情の分析を友達とやってみると面白いと思います。

 

さいごに

去年は旧作を漁ってばかりだったので、今年は新作を見ていきたいですね。

こうして振り返ってみると、俺にとっては意外と家族というものが大きな位置を占めているんだなと思いますね。

 

 

厭世居士驟雨名歌三選

靴下が濡れて悪魔がささやいてふとして思う。君が好きかも
 
耳を当て頷く僕は傘の下君は裸足で寝がえりを打つ
 
体温に張り付くシャツを脱がすとき母とタオルの匂いがよぎる
 
 
厭世居士 発表直前の深夜 自室にて

厭世居士初秋名歌連作

風シャツを通り耳くすぐる夕べ。冬服の君みるうれしさよ
 
 
静けさに秋の訪れ知る僕は階段を駆け図書館へ向かう
 
 
風が吹く見上げて色彩が流れるとき耳もとのタイムマシンよ
 
 
 
 
研究室にひとり、西日が差し込む窓辺にて 厭世居士

あこがれ泥棒

 自分の研究領域と、それとは全く異なる関心事案、結びつけて考えたら鋭い切り口になるんじゃね!って色々と調べてたら、同じ研究領域の第一人者が同じ切り口でめちゃめちゃ論文出してた。夏休み明けの発表のネタできた!下手すりゃ修論にも繋がるんじゃね!独自色あるしこれは評価されるぞ!って皮算用が潰えて、研究者の端くれとしての俺の個性ってものに完全に上位互換が存在したことを知って、落ち込んでます。というよりすごくイライラします。もちろんその研究者に対して腹を立てているわけじゃ無いけど、とても心がざわつきます。

 なんかしらのものづくりに携わった人ならわかると思うんだけど、自分が生み出したアイデアだったり切り口だったり作風が既に先人によって手を付けられていて、挙げ句それが評価されていると心中穏やかじゃないよね。もう少し早く俺が生まれていたら……!

 実際、こういう経験が大事なんだろうなって思う。よほどの天才じゃ無い限り、個性って生得的なものなんかじゃ無く、「お前の個性?既にあるよ」って殴られて殴られて、試行錯誤を重ねてようやく出来上がるものなんだろうな。

 最近、いろいろに付けてインプット優先で、色々と頭の中で考えることが多かったけど、やっぱりアウトプットしなきゃ。文章を書かなきゃ。じゃないとトライアルアンドエラーできないもんね。

 と、人生を巨視的に眺めたところで、今の俺がイライラしていることには変わりない。俺は個性を剥奪されたのだから、社会的な意味で俺の存在は危ういものになる。だから俺は怒っているのさ。

 人の個性って、結局その人が何に興味があるのか、何を好きなのかに集約されるじゃない? だからこそ自分関心や憧れを奪われると、俺は生存本能が働いてピリピリしちゃうんだよね。「俺の真似しないで」っていう小学生的な感情は今でも湧き上がってくる。

 数年前に読んだ本に書いてあった。人間関係をヒトA―ヒトB―モノの三角形で見たとき、各辺を好感情を+、悪感情を-として、各辺の総和が正だとその関係は収まりが良いそうだ。たとえば、俺の好きな人が(+)俺の嫌いなモノ(-)を嫌い(-)だと、その人間関係は良い、と評価できるらしい。

 人の憧れを勝手に憧れる人、俺は嫌いだな。(+)×(+)×(-)だね。でもこの憧れ泥棒君は総じて、この(-)を認識できない。というか、ひとの個性を盗む時点で、(-)になるんだけど、本人は俺が喜ぶと思ってやってるからたちが悪い。というか可哀想。そんな人、だれとも仲良くなれないじゃんね……。

京都の亡霊

思い出してしまった。

それはあくまで感覚、というべきものなのだろうが。

 

午後八時、講義を終えて教室を出る。急ぐ用事も無いのに階段を一つ飛ばしで登ってしまうのはいつの間にか身についてしまった習慣である。観音開きの扉を開けると、ひんやりとした空気が身体を包み込む。しんと静かな夜である。

 

二三の蛾が小さな円を描いて回る白い蛍光灯に照らされて、アスファルトに影が伸びる。研究棟にダクトが走る。揺れる木々の隙間から月明かりが漏れる。

 

八月十日という日付よりも、こんな涼しい夜が、ちょうど一年前の感覚を呼び起こす。

 

まだ人の声は聞きたくないなあ。現実に引き戻されてしまうから。俺は足早に歩き出した。

 

通り過ぎた植え込みから、土の湿った匂いを感じる。そんな些細な出来事が、理性を介さずに、一年前の感覚を俺の中からわしづかみにして引き上げる。大きな二棟の建物を結ぶ渡り廊下の下をくぐった。自分の足音が少し響いた。

 

あの人は――。

 

俺は時々思う。京都の亡霊になったんだなあ。

 

いつもは忘れていても、この街を歩くふとした瞬間に、ひんやりとした空気を纏って俺の隣に居る。

 

少し開けた所に来た。隣の建物の自動ドアには、俺の姿が映っている。

 

携帯電話を耳に当てた。「おかえり」と人の声。

 

「ただいま」俺はつぶやいた。