Nara de Rock'n'Roll 3rd

京都の大学生の独り言……

人にやさしく

2021年4月27日に書きかけていた小説があります。「不幸なラクダ」というタイトルです。もう3年近く前に書いたものなので、文章が拙かったり、時々痛々しいのはご愛敬でお願いします。

 

 

 

 

 青春とは、死に場を見つける旅である。

 早々に列車を降り、そこを安住の地と措定して、死に向かって生に勤しむ者もいる。早いからといって、彼が必ずしも優れているわけではない。人は普通、遅かれ早かれ、いつかは死に場を決めなければならないが、だからといって間違った場所で死ぬのは誰だって御免である。死に場を吟味しなくては。そのために旅人には、青春という潤沢な時間と自由が与えられるが、それが高じて、旅人の役得に惑溺し、頑なに列車を降りない者もいる。彼は死に場を青春列車に決めたのだ。

 加賀見克也は列車を降りれない。

 降りないのではなく、降りれないのだ。

 彼には、車窓から覗くどの世界にも、自分が死ぬべき場所は無いように思われた。普通に生まれ普通に育ち、普通に勉強して大学に進学した。これからもきっと普通に働いて、普通に死ぬのだろう。

しかし文字通りのことだが、普通に“特別“は許されない。

人より楽しく死ぬことも、派手に死ぬことも許されない。加賀見に許されるのは、世の中に百万通りある、至って普通の死だけだ。世の中からは認識されず、消えゆく自分の意識でさえ、きっと並一通りの意識であろう。だったら何のために生を消化する? それではあまりに虚しい。あまりにつまらない。

加賀見は耳を澄ませてみた。

 遠くの方で誰かの笑い声が聞こえる。換気扇がカラカラ回る。

荒いコンクリートと靴底が擦れる音を響かせながら、「造反有理」の落書きや反戦反核ポスターで全ての余白を埋め尽くされた両壁に挟まれて廊下を進み、突き当たりの部屋に入った。

「おっ、加賀見くん。帰ってきたね」

 美奈子が一瞥もせず言った。彼女はこたつの上のカセットコンロにかけてある鍋を、おたまでくるくるかき回している。

「鍋あるよ。加賀見くんも食べよ」

 見ると中には薄茶色の汁がたっぷりあって、白菜の切れ端やらくたびれた昆布やら豆腐の残骸やらが所々ぷかぷか浮いているだけだった。

「ほとんど残ってないじゃないですか」

 コートをハンガーに掛けながら言うと、美奈子の隣で鍋奉行らしく腕を組んで鎮座していた小島が、

「おいおい、よく見ろ、食う所なんていっぱいある。肉だって残ってるぞ」

 と菜箸で鍋をかき回し、底の方から鶏肉の皮を引っ張り上げて見せた。

「……まあ、食いますよ。せっかくあるんだし」

「そうか。よし、待ってろ。皿と箸持ってきてやる。ほら、そこどけ」

 小島は扉の傍に突っ立っている加賀見の横を窮屈そうに通り抜けて部屋を出た。

「小島くん、嬉しいんだよ。後輩に食べて貰えて。小島くんの鍋、あんまり評判よくないからさ」

「え、まじですか」

「うん、まじ。でも私はそんなにまずくないと思うんだけどなぁ」

 美奈子は「ここ、座りな」と、左手でこたつ布団をひらりとめくってみせたから、加賀見は彼女の隣に入った。

「……あったかい」

「お疲れ。バイトの飲み会って聞いたよ。にしては早いね? まだ日変わってないけど」

「二次会断ったんです。それでも十時半頃には寮に着くはずだったんですけど。いろいろグダグダってなって」

「ありゃ、参加すれば良かったのに。加賀見くんのコミュ力を上げるチャンスだぞ?」

「いやいや、飲み会の雰囲気がすっごい嫌で」

「あー、居酒屋はねぇ。あんまり合わないって人、多いみたいだよねぇ」

「ええ、俺には合いません。あんなアルハラまみれの職場」

「じゃ、コールとかあったんだ」

「未だにあるのはおかしいですよ。なんていうか、旧態依然というか前近代的というか……」

「だよね、ホントに。世の中ってそういうものだよ」

「世の中、ですか?」

「そう、世の中」

 美奈子は相変わらず鍋をくるくるかき回し続けている。ときどきコンロの火加減を調節しているが、回し続けることに果たして意味があるのか、加賀見は知らない。

 少しの間沈黙が訪れて手持ち無沙汰になる。こたつの上に放置された、持ち主のわからぬ十円玉を指で軽く弾いて回す。

「小島くん、遅いね」

「確かに、遅いですね。見てきましょうか」

「ううん、いいよ。小島くんだもん」

「なるほど」

 とは言ったものの、なにがなるほどなのかは自分でもよくわからない。

「そのバイト、やめた方が良いよ。雰囲気が合わないのは致命的かな」

「やっぱりそうですかね。でも、結構いいとこもあるんですよ。シフトの融通効くし、まとまった休みも取れるし」

「そっか、加賀見くん、塾講とか向いてると思ったんだけどな」

「うーん、やっぱり融通効かないバイトは嫌ですね。まあ、そういうのって俺のわがままかもしれないけど」

「うん、加賀見くんはわがままだ」

 思わず顔を上げると、美奈子は鍋を見つめてくるくるを続けている。

「もちろん加賀見くんだけじゃない。みんなそう。私だって、わがまま。みんなわがまま。特にこの寮に暮らしてる人たちは」

「そうですかね?」

「そうだよ。みんな、いわゆる社会不適合者ってヤツ。そんな人たちがここに集まってくるの。だから私はここが嫌い。私も社会不適合者だから、私が嫌い」

「先輩なんて社会に全然馴染んでるじゃないですか。友達も多そうだし」

「その友達が全然友達なんかじゃなかったとしたら、どう?」

 美奈子はいつの間にや、お玉を手放し、胸を机の縁に押しつけるように突っ伏していた。加賀見が黙っていると、やおら顔を上げ、うつろな目をしてにこりと笑った。

「……先輩。酔ってます?」

 机の上にはビールとチューハイの空き缶が五六個転がっている。美奈子や小島が飲んだものかもしれないし、もっと前から捨てられずに残っていたものかもしれない。

「何に?」

「いや……酒か、自分か、何かに」

「かもね」

 再び沈黙が流れる。加賀見は美奈子といるときの沈黙が気に入っていた。無理に会話を続ける必要がない沈黙。ただ双方の間に、音の応酬がないと言うだけで、コミュニケーションは続いている。美奈子の飄然とした態度に倦怠の色が差す瞬間、彼女はうつろな目を見せる。それからの沈黙は、すこし厭世的な気を纏う。この時間が、加賀見にとって心地よい。

「ねえ、加賀見くん。ラクダの寓話って知ってるかな?」

「なんですか、それ」

「同じ農場で生まれた二匹のラクダの話。生まれてから、ろくに餌ももらえず、ずっと働かされてきた二匹のラクダが、一匹は金持ちの商人に、もう一匹は貧しい農家に買い取られるの。金持ちの方のラクダは、たくさん餌をもらって、ミルクもたっぷりもらって、仕事も楽で簡単なものばかり。とっても幸せ。でも、貧しい方は、相変わらず餌はもらえず、ずっと働かされっぱなし。そんな二匹が市場でばったり再会するの。金持ちラクダはは貧しいラクダを見て、お前は不幸だ、俺の方が幸せだって言うんだ。すると貧しいラクダはこう返すの。幸せってなあに? って」

「先輩。それ、ラクダじゃなくてロバだったような気がします」

「あれ? そうだっけ。まあどっちでも良いよ。ロバでもヤギでも。でもさ、この話って結局、幸せを知ってるから不幸がわかるって話でしょ? 金持ちロバはいま幸せだから、あの時は不幸だったんだなって思い返せる。貧しいロバは端から見れば、ずっと不幸かもしれないけれど、幸せを知らないから特別不幸だなんて思わない。それに金持ちのロバだって、これから先の長い時間をかけて幸せに慣れて、いつか不幸だった日のことを忘れちゃえば、もう幸せじゃなくなる」

「友達が多いのは幸せのはずだけど、もう慣れて幸せに感じられなくなった、ってことですか?」

「私が金持ちのロバだなんて言いたいわけじゃないよ。ロバの寓話は一般論。私が言いたいのは、幸せも不幸も一対で不可分の存在のはずだってこと。幸せでもどこかに不幸はあるはずだし、いくら不幸に見えても幸せは必ず隠れてる。隠れてるはず、だよね? それが私には見えないんだ。私はきっと、とんでもなく幸せだったんだ。でもそれを忘れて、その記憶が消えていて、でもどこかでやっぱり覚えていて、それがとてつもなく、つらい。私は、貧しくて不幸なラクダなんだ」

「やっぱり先輩は金持ちのロバですよ。先輩ほど面白い人生は無いじゃないですか。俺みたいなつまらない人生なんかより、よっぽど……」

「つまるつまらないの話じゃないんだよー」

 こたつの下で美奈子が脚を伸ばすと、崩していた加賀見の右脚に当たって乗り越えた。加賀見は右脚の上に、美奈子のふくらはぎの柔らかさを感じた。思わず照れくさくなって、脚を引っ込めて後悔する。

 美奈子はケラケラ笑って、

「加賀見くんは自分の人生をつまらないなんて言っちゃダメだよ。ね、面白いでしょ。君の人生」

 

(以下、省略)

 

 

この話は自分の実体験が基になっていて、小島も美奈子も現実の俺の先輩をモデルにした人です。もちろん名前は変えてますが。

 

この話を書こうと思ったきっかけは今でも覚えています。俺が一回生のころ、居酒屋のバイトで強烈なアルハラとセクハラを目の当たりして寮に帰ってきた時、部屋で小島さんと美奈子さんが鍋をしていました。その二人が俺に鍋を食わせてくれて、俺はバイトの愚痴を吐き出しました。二人は俺の話をきちんと聞いてくれて、優しい言葉をかけてくれました。俺がまだ寮に馴染めていなかった頃です。俺は二人の優しさに救われました。

 

この物語中の会話がどれほど現実に基づいたものなのかは正確には覚えてません。「飲食ってそんなもんだよ」とか「そのバイトが合わないって思うならやめた方がいい」みたいなことを簡単に話しただけだったとは思います。

 

美奈子さんは少しアンニュイに描いていますが、現実はもっと快活な人、本当にやさしい人でした。みんなから好かれる先輩でした。もちろん俺も大好きな人です。大好きだからこの話を物語にしたいと思ったんです。

 

俺が2回生に上がるとき、美奈子さんは就職して寮を出て行きました。それから関わりはなくなってしまい、彼女が時々寮に遊びに来てるのを見かけることはありましたが、話しかけることはありませんでした。

 

そのうちに美奈子さんを思い出すことはほとんどなくなり、俺もこんな小説を書きかけていたことすら忘れていました。

 

昨日の夜、美奈子さんの訃報を聞きました。職場の人間関係に悩んでいたそうで、自殺されたとのことです。

 

俺はショックでした。言葉足らずですが、ショックとか悲しいとか、それしかいえません。

 

繰り返しになりますが、彼女はほんとうにやさしい人でした。彼女が自殺しなければいけない社会っていうのはどう考えても間違っている。100パーセント社会が悪い。今の社会は明らかに間違っています。

 

現状肯定はいけません。なんだかんだ世の中良い方向に向かってる、と楽観視してはいけません。常に抗い続けましょう。一人一人がやさしい人になりましょう。俺もやさしい人になりますから。