Nara de Rock'n'Roll 3rd

京都の大学生の独り言……

社会のはみ出しものは自己変革を目指す

 ご無沙汰しております。厭世居士こと天燈鬼です。

 

 前回の記事ではすこし暴れてしまいました。すみません。最近は躁鬱気味でいろいろ大変だったのですが、なんだか自分のメンタルの扱い方にようやく慣れてきました。ご心配をおかけしました。

 

 相変わらず卒論は鋭意執筆中なわけですが、先日、能を観る機会があって少し見に行って参りました。演目は楊貴妃玄宗皇帝の命を受けた方士、常世の国に暮らす楊貴妃を訪ねるという展開です。

 能は伝統芸能の中でも特に難解なものとして有名ですけれども、実際に観てみると想像以上に退屈なもので驚きました。とにかくまあ、何を言っているのかさっぱりわからないわけです。わけがわからないまま1時間半ほどの時間がすぎてゆくのです。ふと会場を見渡してみると、多くの観客がパンフレットに目を落としているのか居眠りしているのかわからない格好で下を向いていました。ああ、こりゃ皆わかってないや……って感じですね。

 こうなってくると少し心配になってくるのは伝統芸能としての存続、という問題です。

 文化の継承という観点で大事になってくるのは、文化はそれ自体に価値がある思想、つまり功利的・道徳的価値がなくとも人間の営みそれ自体に重要な価値があるという思想でしょう。こういう思想というか感覚は自分も持っているし、一般大衆はともかく知的エリートの大半は幸いにもそういう感覚を持っているのだと思います。

 ただ、文化の(受け手としての)担い手である知的エリート(伝統文化に対して寛容で、若干の素養を持っているという意味で)がさっぱり内容を理解できないという事態は、文化維持のモチベーションを考えてゆく上では能は危険かなと、個々人の能に対する意識は他に比べて弱くなってしまうのかな、と思います。俺には良さはわからなかったけど、無くならないで欲しい、という感覚です。まさにそういう感覚しか浮かび上がってきませんけど。

 

 能を見ている間、あまりに退屈だったので何か別のことを考えるわけですが、ふと高校の同級生のK君を思い出しました。この夏、K君が関西に遊びに来たときに一緒に大阪で遊んだことがあったのですが、その際、俺が金欠にもかかわらず散々食べ歩きに連れ回して時には奢らせた挙げ句、自分だけ風俗に行ったことがありました。そんな記憶を何故か急に思い出してものすごく腹が立ってきたのです。

 家賃4300円の下宿に住んでいる奴が翌日18きっぷを使って帰省する、という状況からその裏側にある金欠という感覚を導き出せない貧弱な想像力。おそらく貧困という問題を今まで一切考えることのない生活をしてきたからでしょう(本記事にはルサンチマン成分が大いに入ってます。最近自分はその傾向が強い)。むしろ奢らせるというところ、客人扱いをさせるところ、彼の言動の節々から感じたのは、俺を下に見ているな、という感覚でした。自分の京大生という属性すら、頭が良い=話の通じないおかしな宇宙人、と捉えられているような感じも受けました。高校の頃はあんなに仲良く話してたのにな。俺からすればまともに会話が出来なくなったのはお前じゃないかと言いたくなります。

 彼は自分が働いている会社が中央アジアや南米で、地元の労働者をどう扱っているのか知っているのでしょうか。見えないところに負担を押しつけ、目に見える形で自分を着飾る企業の搾取構造をどの程度理解しているのかと思います。 

 当然、事実として知ってはいるのでしょうが、一体どういう感覚を持っているのか気になります。無視をしているのか、気の毒に思っているのか、申し訳なく思っているのか。

 実際の所、自分の思想と言動を一致させることは難しいです。絶対に何かしらの矛盾は生まれますし、大きな社会構造に立ち向かう勇気がある人は極めて少ないでしょう。ただ、すくなくとも何かしらの思いを馳せておくべきだと俺は思うし、そうしないと何か決断を迫られるという事態に際して、現状維持という選択しか取れなくなる。そういうことはビジネスとか経営とか倫理とかを抜きに考えても、頭の悪さを感じてしまって俺は嫌だ。

 まあ色々と憶測で語ってしまいましたが、つまりは他人への配慮が足りない、ということです。

 

 下に見られているという感覚は、俺の被害妄想も少なからずあるかも知れません。ただ、それを感じてしまっている以上、俺は彼と付き合う価値はないと感じました。つまり縁を切ろうと思っていて、それがすんなり心の中で受け入れられたということです。

 俺は昔、というか数ヶ月前まで、出会いは縁だと思っていました。つまり自分の友人というのは、学校で席が隣だったとか偶然同じ部活だったとか、そういう些細なきっかけによって生じる関係性とみていたわけです。極論、関係性よりもきっかけの方が本質、という感覚で、何らかきっかけを持ってしまった以上、友人には寄り添うべきだし、ある程度自分を変えてでも付き合っていくことが良いことだと考えていました。

 いまから考えると馬鹿馬鹿しい考えです。いまのおれにとって高校で唯一の親友と言えるのがヤマザキです。ヤマザキは「友人」であることに価値があるのではなく、「ヤマザキ」であることに価値があります。そして、ヤマザキは何か俺に資するものを提供してくれるから価値があるのではなくて、俺もヤマザキも互いに嫌なところとか軽蔑してるところはあるでしょうけど、それでもやっぱりそれなりにリスペクトやシンパシーを感じているから価値があるのです。

 

 そういうわけで、俺はK君に対してリスペクトもシンパシーも持てない、ということに気がつきました。だから俺は彼を友達とは思わないことにします。もちろん、嫌いになったわけではないし、またどこかで話せば意気投合するかもしれません。ただ、ひとまずこの結論が俺の中で腑に落ちてしまって、これから彼を思い出すことはないだろうなと思います。

 

 

 さて、退屈の間にいろいろな考えを巡らせることになった能、ほとんど理解不能だった能ですけれど、一つだけ心が動かされたところがあります。

 それは引き際。音楽の中、舞い終えた楊貴妃が宮中にうずくまって涙を流す。音楽が止まる。楊貴妃は立ち上がり、宮中を出て一人ゆっくり舞台袖へ向かう。残された囃子たちも、やがて丁寧に道具の後始末をすると、足並みをそろえて袖へと捌けてゆく。

 能にはここが終幕、という合図がないのです。舞台の終わりは瞬間的に訪れるのではなく、時間をかけて終わるのです。フィクションの世界から現実へとなめらかに引き戻されてゆく間、それぞれの観客は俺のように、それぞれの考え事を結着させることが出来たでしょうか。俺のように、舞台の端にひっそりと帰っていく楊貴妃の孤独に思いを馳せていたりするのでしょうか。