Nara de Rock'n'Roll 3rd

京都の大学生の独り言……

小説の効能

「美の感覚に導かれた人間は偶然の出来事(ベートーベンの音楽、駅での死)をモチーフに変え、そのモチーフはもうその人間の人生の曲の中に残るのである。そのモチーフは人生にもどってき、人生を繰り返させ、変え、発展させるが、それは作曲家が自分のソナタのモチーフをそうするようなものである。(中略)すなわち、小説が偶然の秘密に満ちた邂逅(例えば、ブロンスキーとアンナの出会い、プラットホームと死、あるいは、ベートーベンとトマーシュとテレザとコニャックの出会い)によって魅惑的になっているとして非難するべきでなく、人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。」

クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

 


小説、ひいてはフィクション全体に対する捉え方として非常に素敵だなと思い、今読んでいる小説から引いてきた文です。僕はかつて「人生は小説のようにロマンチックであるはず」といったことをテーマに小説を書いたことがあり、小説を人生の、人生を小説のアナロジーとしてみる見方は共感するところが多いです。

 


フィクションは楽しければそれでいいという意見もあるとは思いますが、一方でフィクションを読むことで人生に美しさを見いだすことができる、という効能も確実に存在します。多くの良質なフィクションに触れることで陶冶される「自分の人生は美しい」という感覚は必要最低限の自己肯定感を担保し、自傷的行動に走る前の最後の防衛線になります。

 


もちろん、つらい現状にいるさなかはつらいでしょう。けれども後から振り返ってみたら、浪人生のときにに地元の海を当てもなく散歩したことも、大学生で恋に悩んで鴨川の縁に体育座りして過ごしたことも、そのとき見た夕焼けと聴いていたチャットモンチーとともに美しい思い出として引き出されます。自分の生き方は正しいかどうかはわからないけれど、間違ってはいなかったと思えるのです。

 


たくさんフィクションを知り、クンデラの言う「人生の美の広がり」に目を向けるようになると、さらにフィクションを味わうことが出来るようになります。

 


一ヶ月ほどまえ、僕が院試勉強で心身共に疲弊しているとき、小沢健二の「アルペジオ」という曲を聴いて涙が止まらなくなってしまったことがありました。この曲の歌詞は少し特殊で、三つのストーリーが重ねられているのです。一つ目は小沢健二岡崎京子とのストーリー。(このあたりの事情を丁寧に解説してくれている記事があったのでリンクを載せておきます。)

ameblo.jp

 


二つ目はこの曲が書き下ろされた映画「リバーズ・エッジ」のストーリー。そして三つ目は歌詞を解釈する聴き手自身のストーリー。つまり僕自身のストーリーです。僕の場合は歌詞に出てくる「ベレー帽の君」が、大好きだけれど手の届かないAさん、とても苦しい時期に手を差し伸べてくれた同じ研究室のBさん、しばらく疎遠にしている間に亡くなってしまったCさんという三人の憧れの先輩に重なりました。たった3分強の曲から膨大な情報量が引き出されて、本当に心が揺さぶられる経験をしました。

 


エンタメだけを消費するとか、そういう偏ったフィクションへの触れ方はもったいないと個人的には思います。人間のあり方が狭まります。紋切り型のあり方でしかいられなくなります。

 


僕が昔親しくしていた人は、純文学的な小説や映像作品全般に対してのリテラシーが無く、エンタメ色の強いドラマや映画としてしかフィクションに触れてこなかった人でした。彼女にとって「努力」というイメージはあまりに漠然としていて、どのように努力すべきかわからない。「恋」も自分の現実とはかけ離れたものを夢見て、「生き方」は皆目不透明。時をかける少女や二重人格の公安としての華々しい生き方は知っていても、今を生きる自分の生き方はわからない。質素な自分の暮らしを肯定できない。といった具合です。

 


本屋に務めているAさんが教えてくれました。いま本屋で一番売れている本はなろう系で、10代から60代までの幅広い年代の方が買いに来られるそうです。「弱者男性」という概念は日本の病理で構造的な問題ですから、本人の資質にのみ還元して論じるべきではないでしょう。でも、そういう本の読み方はだめなんです。紋切り型の美少女や王子様に憧れていては人としてのあり方が限られてきます。もっと現実に即した夢のみかたがあるはずで、その方がもっと多様で美しいのです。

 


ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』では、文学の持つ力として、哲学的な「分析」では到達不可能な、他者の苦痛への「共感」の陶冶が挙げられています。このローティの文学観は僕にとって非常に納得できる物でした。

 


身の回りを見ても、人間の多様なあり方や生き方を否定し、「冗談」の体で差別的な発言をする人は、多くの場合、フィクションを読まない人です。

 


ビジネスライクな表現をすれば、フィクションは他者の苦痛というデータの断片です。データの断片を知らずに、リベラルな言説に触れても、真に理解できないのは当然です。まとまった「分析」に触れて、構造を認識したはいいものの、個々の苦しみを知らないから、「だからなに?」で終わってしまうのです。フィクションを読まない人はデータ不足のため、適切な(倫理的な)判断を下すことが出来ていないのです。

 


つまり、小説を、純文学をもっと多くの人に読んでほしいのです。特にマイノリティの生活の支配権を握る人々、政財界の人々や影響力のある表現者たちには。

 


周りを見ていても頭のいい人はたくさんいます。現状分析力や問題解決能力に長けた優秀な人材は多いです。しかし彼らが真に倫理的かと言われれば、僕はそうだとはいえません。

 


もし、この世界を分断するあり方は正しくないと皆が認識しているのならば、これから必要とされている人材は、他者の苦痛に共感できる人だと僕は思います。