Nara de Rock'n'Roll 3rd

京都の大学生の独り言……

エジプトの高貴な猫

 おれの物心は孤独と空腹と同時に始まった。気づいた時にはすでに肉球に張り付くほど熱く乾燥した大地を一人で歩いていた。漁師の家から出るゴミを漁って飢えをしのぎ、時折逆上した人間にはさみで尻尾を切られそうになっても、おれはただひたすら歩き続けた。生きるためでもあったし、他にすることがなかったからかもしれん。

 あるときおれは海の水を間違えて飲んでしまった。身体から急激に水分が失われ、おれは全く歩けなくなってしまった。暴力的なほどまぶしい太陽がおれの全身を焦がしていく。視界が揺らめいて遂に死の淵をみたとき、急に雨が降り始めた。おれは生き返ったのだ。おれはこのときはじめて自分以外におれの存在を気にかけてくれる神の存在を知った。

 再び歩き出したのち、しばらくして目の前に現れたのは、大きな石造りの迷路であった。後になって知ったことだが、この迷路を人はアレクサンドリアと呼ぶらしい。そして初めて宮殿というものを見たときに、おれはここに来るために歩き続けてきたのだと悟った

 おれは宮殿に出入りを許されるようになった。とても綺麗な女の人が宮殿の前に倒れているおれを拾ってくれたのである。おれは彼女の寝室を気に入って、そこを住処とすることに決めた。

 彼女の美しさを一目見ようと数え切れないほどの男が宮殿を訪れた。彼女がひとりで寝ることはほとんど無く、常に誰かが隣にいた。しかし彼女が日を経るごとに寂しそうな目をするようにおれは思えた。

「それは彼女がエジプトを背負っている女王だからだよ」

 夢の中で神が教えてくれた。

「女王の恋愛は彼女のためだけではない。その行く末にエジプトの全てがかかっているほどの大恋愛なのさ」

 

 女王が真の意味で恋をしたのは二人しかいない。二人ともエジプトから遠く離れたローマの男である。一人目は鋭い目つきで頭の切れる男だったが、奴は帝になろうとして殺された。彼女は大いに泣いた。二人目は一見柔和で人当たりのいい男であったが、ときどき彼女と話していると機嫌を悪くした。お前は愚鈍だと言って部屋を出た。そのたびに彼女は一人で泣いた。これほどしょっちゅう泣いても涙の尽きない彼女の心はどれほど豊かなのだろうかと考えたとき、おれは女王に恋をしていることに気がついた。

 彼女の隣で眠るあの男を拒絶することはいくらでも可能だった。寝室にカギをかけてしまえばいい。宮殿から追い出してしまえばいい。しかし彼女は彼を全力で愛した。彼女はただ、男の顔を優しく撫でていた。彼女は人を愛するようでいてエジプトを愛し、しかしやはり人を愛していたのだ。そんな彼女がどうして食い物にされねばならん。憂き目に遭わねばならん。願わくばおれが代わりに奴を殺してやりたい。喉を切っても割れることのない丈夫な爪が欲しいと思った。

 

 ある夜おれは夢を見た。夢の中で神が言う。

「お前は現世で命を終えた後、冥界の神となって人間を導かなければならないよ。良き指導者として、お前には欲しいものひとつだけなんでもあげよう」

 思いのままに空を飛べる翼か? 水平線まで一瞬で走れる丈夫な脚か? 神が問う。 

「おれに死期が迫っているということか?」

 おれの言葉に神は少し微妙な顔をした。

「そんなことは私にだってわからん。ただね、かわいい黒猫よ、お前は本来冥界の神になるべき存在なのだから、狭い王宮に閉じこもっているべきではないのだよ」

 おれは神に言った。

「一晩だけでいい。女王の腕に抱かれて眠る夜が欲しい」

 

 彼女は大きな瞳に大粒の涙を溜めたまま寝室へと入ってきた。また奴に政治のことで言われたのだろうか。おれは人間の社会をよく知らないからその彼女を泣かす政治というものが一体何なのかわからない。神になったら理解できるのだろうか。

その夜、彼女はおれをかかえビロードの上にのせ、そっと俺の毛皮を撫でてくれた。彼女の寝息に包まれて俺は寝た。幸せな時間は一瞬で過ぎると聞いていたが、必ずしもそうではないらしい。これ以上に幸せな永遠というものをおれは経験したことがない。

 

 翌朝、女王は自らの身体を毒蛇に噛ませた。女王の身体が倒れる音で驚いて目を覚ますと目の前には、彼女の白い肌を食い破った毒蛇の鋭い目が俺を捉えていた。

 おれは肉球をずぶりといかれた。しかしおれの爪も蛇の喉元を貫いた。なんだ、ひとつだけではないではないか。

 肉球は赤い木の実みたいに大きく腫れ上がり、蛇の牙から引き抜くと血と嫌な汁がぼたりと落ちてくる。身体が猛烈に熱い。しかしこの苦しみを味わっているのがおれだけではないことが悲しい。おれは泣いた。

 絨毯に這いつくばっている女王は、身体をひきずっておれの隣に寝そべると、おれの醜い前脚を手に取って傷口にそっと口づけした。眠る男を優しく撫でるときと同じ、優しい顔であった。

 

 ローマ人の男が何人かの部下を連れて部屋に入ってきた。男は既に息絶えた女王を見るとすぐさま抱きかかえ、涙を流した。おれは命一杯に叫んでやりたかった。

──彼女は誇り高きエジプトの王である!