Nara de Rock'n'Roll 3rd

京都の大学生の独り言……

読書について

 僕と君とでは、好きな小説も年齢も読書量も感情の豊かさも頭の良さもまるで違うけれど、共通した性質をひとつ持っている。それは、本に情報やプロットや経験以上のものを見出しているところ。文字は情報伝達のための交換可能な記号なんかじゃなくて、「想像」という僕らにとってのメタバースに繋がる入場券で、そこには境界も物理法則も次元も存在しない。

 

 ただ、その世界は個人という単位で幾重もの層に分かれていて、互いに互いを認識することはできない。もし互いに認め合えるとしたら、それは政治や神話や国家になってしまうから。だから岸政彦も村上春樹もポールオースターも、君の通ってきた残像を案内するだけで、たとえ同一地点に君がいたとしても、現実世界と違って僕は君に触れることができない。想像の世界は孤独だ。

 

 君は話してくれたよね、本棚は似ているのにまるで性格の合わなかった男の存在を。僕は人文主義者だから(そしておそらく君も)生化学的事情を考慮せずあくまでも文化的に考えてしまうんだけど、たぶんこの性格の不一致は、読書のフィードバックサイクルに起因する。

 

 人が本を読むとき、物語の全場面を一言一句認識することは不可能だから、読み手は要約やら切り取りやらをしてデータを圧縮し、その上で記憶しやすいようになんらかの意味づけをすることになる。つまり解釈というものだ。こういう風にして、本は読み手に物語を提供するけれど、厄介なのはその物語が現実世界の読み手のあり方まで変えてしまう力を持っているところにある。読み手が変われば当然、解釈も変わる。つまり読書という営みは解釈と人格変更の絶え間ないループで、現実世界の自分が変わってゆくと同時に、想像の世界も刻々とパーソナライズされてゆくわけだ。このサイクルを繰り返すほど、現実世界でのほんの些細なギャップがどんどん大きなものになってゆく。僕たちのメタバースっていうのは奥に進めば進むほど、各層の色合いが濃くなって、しかもバラバラだ。

 

 つまりさ、何が言いたいかって、現実世界で君と会いたいんだよ。いくら君と同じ本を読んだって、むしろ君は遠ざかってしまうんだよ。

 

 君はいま限りなく透明に近いブルーで、僕はすこし俗っぽいライトブルーだけど、どの色を合わせたって君の色には辿り着かない。どんどん鈍く澱んだ色になっていって、遠くの街並みが全てぼんやりとした灰色に見えるように、君の世界から僕が見えなくなってしまうんだろう?