Nara de Rock'n'Roll 3rd

京都の大学生の独り言……

断片的なもの

「そうかぁ、お前も来月には社会人か。すげえな。まあ、なんていうか、頑張って。俺、半分就活諦めたようなもんだったからさ、ちゃんと社会に出て自立して働こうとするのマジですごいと思うよ。大人だな」

「ううん、全然。まだまだ子ども。ホントに社会人としてやってけるのかって感じ。だって私結局家決めたの先週だもん。めっちゃギリギリ。ホントひとつだけ良い物件が余っててよかった」

「あ、やっと物件決めたんだ。マジでギリギリだな。あれ、大阪だっけ?」

「静岡。本社は大阪なんだけど、最初の研修で静岡の工場に行かなきゃ行けなくて」

「へー、現場で働くの?」

「一応ね」

「マジで!? ちゃんと働けんの?」

「うわ声でかいなぁ。一応大学なんだし声抑えとこうよ」

「こんな深夜に人いないって」

「まあ、たしかに。深夜ってかもう早朝に近いけどね」

「たしかに」

「うん。ちゃんと働かされるっぽいよ。だから力仕事もそれなりにあるっぽい。まあ半年間の辛抱よ」

「すげえな。……静岡って何があるの?」

「なんもないよ。なんか先輩に聞いた話だけど、私が通う工場も田んぼの中にただぽつんってあるって感じらしくて」

「うわそれ、コンビニなかったら地獄だね。あ、そう、俺ももうすぐ地方行くんだ」

「え、そうなの? どこ?」

「東北。ゼミで取材してる集落が海岸沿いにあってさ」

「へえ、東北のどこ?」

気仙沼。わかる? 宮城の」

「あー、わかんないや。漁村なの?」

「うん、市街地から離れると未だに結構伝統的な漁業生活してる人がいるらしい。からそれを聞き取り調査しに行く」

「へぇ、面白そう。いつ行くの?」

「今月の9日から一週間くらい」

「え? もうすぐじゃん」

「うん、もうすぐ。最近新しい新幹線ができたから仙台までそれでいく」

「あ、はやぶさ? だっけ?」

「うん、はやぶさ。えっと、ちょっとまってね……、うん、この写真のやつ」

「いいなぁスマホは、ぱっと調べ物できて。うん、はいはい、この緑のやつね。ニュースで見たことある。かっこいいよね」

「だよな」

「うん」

「お……空が明るくなってきた」

「うわほんとだ……」

「夜明けだな」

「うん」

「……」

「……」

「……帰る? そろそろ」

「……うん、帰ろっか」

「最後にひとつ聞いて良い?」

「うん、なに?」

「いつもこうしてお酒飲むときさ、その、飲んだ缶のそれ……」

プルトップ?」

「うん、それ。それ取るの、毎回やるよね」

「ああ。なんかねぇ。昔近所に住んでたお姉さんがベルマーク集めててさ、こういう缶のプルトップも一緒に回収するらしくて、だから毎回うちでも集めてその人にあげてたんだよね。それからクセで毎回取っちゃう」

「はは、そうなんだ」

「そう、若い頃の習慣だね」

「そうか」

「うん」

「……」

「……」

「……そろそろ行くか」

「うん、あ、私缶捨てとくよ」

「お、ありがと」

「うん」

「あのさ、これからどうする?」

「これからっていうと?」

「連絡は、ときどき、取る?」

「いやー、いいよ。お互いの、ために、ね」

「そうだな、お互いの。そう、うん、きっぱりね」

「うん、きっぱり」

「じゃあ何もない限り連絡はしない。俺からも、お前からも」

「うん、何もないってことは、元気に過ごしてるってことだからね」

「そうだな、じゃ、俺、自転車こっちに停めてるから」

「そっか、私あっちだ」

「よし、それじゃ、バイバイだ」

「うん。バイバイ、元気で」

「お前も、元気で。じゃ、またどこかで」

「うん。じゃあね、バイバイ」

 

エジプトの高貴な猫

 おれの物心は孤独と空腹と同時に始まった。気づいた時にはすでに肉球に張り付くほど熱く乾燥した大地を一人で歩いていた。漁師の家から出るゴミを漁って飢えをしのぎ、時折逆上した人間にはさみで尻尾を切られそうになっても、おれはただひたすら歩き続けた。生きるためでもあったし、他にすることがなかったからかもしれん。

 あるときおれは海の水を間違えて飲んでしまった。身体から急激に水分が失われ、おれは全く歩けなくなってしまった。暴力的なほどまぶしい太陽がおれの全身を焦がしていく。視界が揺らめいて遂に死の淵をみたとき、急に雨が降り始めた。おれは生き返ったのだ。おれはこのときはじめて自分以外におれの存在を気にかけてくれる神の存在を知った。

 再び歩き出したのち、しばらくして目の前に現れたのは、大きな石造りの迷路であった。後になって知ったことだが、この迷路を人はアレクサンドリアと呼ぶらしい。そして初めて宮殿というものを見たときに、おれはここに来るために歩き続けてきたのだと悟った

 おれは宮殿に出入りを許されるようになった。とても綺麗な女の人が宮殿の前に倒れているおれを拾ってくれたのである。おれは彼女の寝室を気に入って、そこを住処とすることに決めた。

 彼女の美しさを一目見ようと数え切れないほどの男が宮殿を訪れた。彼女がひとりで寝ることはほとんど無く、常に誰かが隣にいた。しかし彼女が日を経るごとに寂しそうな目をするようにおれは思えた。

「それは彼女がエジプトを背負っている女王だからだよ」

 夢の中で神が教えてくれた。

「女王の恋愛は彼女のためだけではない。その行く末にエジプトの全てがかかっているほどの大恋愛なのさ」

 

 女王が真の意味で恋をしたのは二人しかいない。二人ともエジプトから遠く離れたローマの男である。一人目は鋭い目つきで頭の切れる男だったが、奴は帝になろうとして殺された。彼女は大いに泣いた。二人目は一見柔和で人当たりのいい男であったが、ときどき彼女と話していると機嫌を悪くした。お前は愚鈍だと言って部屋を出た。そのたびに彼女は一人で泣いた。これほどしょっちゅう泣いても涙の尽きない彼女の心はどれほど豊かなのだろうかと考えたとき、おれは女王に恋をしていることに気がついた。

 彼女の隣で眠るあの男を拒絶することはいくらでも可能だった。寝室にカギをかけてしまえばいい。宮殿から追い出してしまえばいい。しかし彼女は彼を全力で愛した。彼女はただ、男の顔を優しく撫でていた。彼女は人を愛するようでいてエジプトを愛し、しかしやはり人を愛していたのだ。そんな彼女がどうして食い物にされねばならん。憂き目に遭わねばならん。願わくばおれが代わりに奴を殺してやりたい。喉を切っても割れることのない丈夫な爪が欲しいと思った。

 

 ある夜おれは夢を見た。夢の中で神が言う。

「お前は現世で命を終えた後、冥界の神となって人間を導かなければならないよ。良き指導者として、お前には欲しいものひとつだけなんでもあげよう」

 思いのままに空を飛べる翼か? 水平線まで一瞬で走れる丈夫な脚か? 神が問う。 

「おれに死期が迫っているということか?」

 おれの言葉に神は少し微妙な顔をした。

「そんなことは私にだってわからん。ただね、かわいい黒猫よ、お前は本来冥界の神になるべき存在なのだから、狭い王宮に閉じこもっているべきではないのだよ」

 おれは神に言った。

「一晩だけでいい。女王の腕に抱かれて眠る夜が欲しい」

 

 彼女は大きな瞳に大粒の涙を溜めたまま寝室へと入ってきた。また奴に政治のことで言われたのだろうか。おれは人間の社会をよく知らないからその彼女を泣かす政治というものが一体何なのかわからない。神になったら理解できるのだろうか。

その夜、彼女はおれをかかえビロードの上にのせ、そっと俺の毛皮を撫でてくれた。彼女の寝息に包まれて俺は寝た。幸せな時間は一瞬で過ぎると聞いていたが、必ずしもそうではないらしい。これ以上に幸せな永遠というものをおれは経験したことがない。

 

 翌朝、女王は自らの身体を毒蛇に噛ませた。女王の身体が倒れる音で驚いて目を覚ますと目の前には、彼女の白い肌を食い破った毒蛇の鋭い目が俺を捉えていた。

 おれは肉球をずぶりといかれた。しかしおれの爪も蛇の喉元を貫いた。なんだ、ひとつだけではないではないか。

 肉球は赤い木の実みたいに大きく腫れ上がり、蛇の牙から引き抜くと血と嫌な汁がぼたりと落ちてくる。身体が猛烈に熱い。しかしこの苦しみを味わっているのがおれだけではないことが悲しい。おれは泣いた。

 絨毯に這いつくばっている女王は、身体をひきずっておれの隣に寝そべると、おれの醜い前脚を手に取って傷口にそっと口づけした。眠る男を優しく撫でるときと同じ、優しい顔であった。

 

 ローマ人の男が何人かの部下を連れて部屋に入ってきた。男は既に息絶えた女王を見るとすぐさま抱きかかえ、涙を流した。おれは命一杯に叫んでやりたかった。

──彼女は誇り高きエジプトの王である!

厭世居士夜勤名句七選

 

自販機と鳴く夏虫の夜道かな

 

白シャツとまるで湯気立つアスファルト

 

ひとりきり奥歯かみしめ夜勤かな

 

夜過ぎて飲む珈琲は甘くない

 

手がつかぬわかっているけど手がつかぬ

 

呆れるな叱ってくれよと言いたくない

 

口閉じろお前はよくても俺はやだ

 

  厭世居士  部屋の寒さに腹を下しそうな夜 勤務先のホテルにて  

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が今世紀最高の映画だった件について

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(以下、EEAAO)を観に行ってきました。

 

マルチバース×カンフーというコンセプトを聞いたときは「アフリカンカンフーナチス」的なオモシロB級映画だと思っていましたが、『群像』の連載を読む限り、どうやらこのEEAAOがアメリカのZ世代に大人気とのこと。ネタバレを避けたかったのでその記事はじっくり読んでないですが、「なんだかよくわからないけどすごいことだけはわかる」的な事が書いてあった気がします。実際に見てみると確かにそんな感想です。

 

個人的な意見なんですけど、サブカル系の作品はライトにもヘビーにも鑑賞できることが大前提として必要だと思うんですよね。難解で抽象的な理屈をこねくり回すのは純文学とか前衛芸術の役割ですので、ざっと話の筋だけを追ってても楽しめるように作られてなきゃいけませんし、かといって表面上の面白さだけで中身がなければ、もはやそれはアヘンです。油ギトギトでこってりなのに実は栄養価満点みたいな、そんな作品をサブカルには期待しちゃうわけです。

 

そこへいくとEEAAOは最高のサブカルといっても良いでしょう。物語は淡々とコミカルに展開していくけれど、きちんと独創的な設定で作り込まれています。くどい説明など2ちゃんねるに巣喰うキモオタにしか需要無いんですよ。映画ってのは巻き戻しや一時停止をすることができず止めどなく流れてくる作品世界にどっぷり自分自身を浸した中で、「もしかしたらさっきのシーンってこういうことだったのかな」って自力で作品に近づこうとするのが一番の楽しみだとオレはおもうんです。

 

ちょっとネタバレになるかもですが、「塩やらゴマやらいろんなものをかけたベーグル」もブラックホールの性質を考えれば色々と合点がいきますし、マルチバースの世界分岐も作中でちょっと出て来た樹形図を考えればなんとなくはわかります。ただそれが全部が全部わからないというか、そのあたりが視聴者がこれまで見聞きしてきた教養と見識に委ねられている感があって、ここが作品に深みを出しているところだと思うんですよね。

 

北野武映画は「説明が少ない」ところが高く評価されているらしいです。EEAAOは全く経路の異なる作品ですが、振り返ってみると、こりゃアカデミー賞総ナメするわ、と思います。

 

『三体』好きな方、ぜったいこれも好きだと思うので是非見て欲しい。

急行、伏見稲荷を過ぎて

車内は仕事を終えた人で混み合う時間だった。京阪はよく揺れる。おれは扉のすぐ横にもたれかかって文庫本を読んでいた。

中学生くらいだろうか、少女三人組が乗り込んできて扉の前でぺちゃくちゃと話し始めた。私服だったからもしかすると小学生なのかも知れない。おれは読書に集中していたから、彼女たちが何を話していたのかはわからない。

ふと視界の端で、一人の少女がもう一人の腰に手を回して身体ごと近づけるのを見た。それから二人の口元で口づけの音を聞いた。文字列を追っていたおれの目の動きは止まった。

二人のキスを見ていた三人目の少女がくすくす笑う。おれはどこまで読んだかわからなくなった。

丹波橋に着くとおれはそそくさと列車を降りた。直後、背後で少女たちの笑い声が爆発した。

 

 

パイオニアってずるいよな

って思います。だって一番面白いところをかっさらっていくんですもの。明治維新終戦直後に青春を迎えられた人は幸運です。好奇心の赴くままに思索を働かせていれば、それがそのまま新たな学問になり文学になり哲学になるのだから。

 

現代の文化活動は総じて洗練されすぎていけません。なにをするにしても、個人ができるのは細分化された仕事のみ。今の学者は歴史を語る能わず、○○時代の△△地域の××の□□性について語るのです。もはや作家は真摯な芸術表現のみでは糊口を凌げず、○○というジャンルの雑誌「△△」の××新人賞に向けた作品を書かなければそもそも作家を名乗ることすら許されないわけです。

 

今の社会はこれまでの蓄積がたんまりありますから、大きな設計図を描く人はそんなに多くいりません。むしろ既存の建物の一室をちまちまといじくる仕事を分業的にやらされるわけです。

 

ああ悲劇かな、人類は。文化を人間的に煮詰めすぎて、残されたのは非人間的な労働のみ!悲しきかな現代社会!!

 

──というのは冗談として、先日手塚治虫の『アドルフに告ぐ』を読みました。このマンガは手塚治虫の最晩年に書かれた作品でファンの中では最高傑作と名高い、そうです。

 

僕ら世代にとって手塚治虫はほとんど歴史上の人物なので、半ば古典を読むような感覚でページをめくっていたわけですが、これがまあ現代でもバリバリに通用する面白さなわけです。各所に張り巡らされた伏線、思わぬ関係が交差する人間模様、莫逆の友を敵に変えてしまう運命のいたずら……手塚ワールドというにふさわしい宇宙観が私の心を掴んで離さず、夢中で読み進めました。そして最後のタイトル回収!あそこはもうサブカルオタクとしてはもう気持ちよすぎましたね。ほぼイキかけました

 

久々にマンガでも読みたいと思ってる方、是非お読みください。

 

現に今生きている、という才能

小学校の同期と久しぶりに会いました。3年ぶりくらいですかね。

 

小学生なんてほんの少し前だったような感じなのに、卒業してもう10年も経っているわけです。社会人やってたり院生やってたり一浪して4回生やってたり、まあ皆色々立場は変わってるわけです。12歳の頃と同じ気分でわいわいやってましたけど、酒を飲みながら新社会人勢の仕事の愚痴を聞いてるのはなんだか感慨深いです。

 

こうして昔の仲間が集まったときの話題が思い出話に偏るのは当然のことだと思います。色々と懐かしい名前が飛び交いましたけれど、彼等の中にはモデルや俳優、サッカー選手として高みを目指している人もいる一方で、高校を中退した人や音信不通になった人も結構いて割と衝撃的でした。2年前の11月頃、発表の準備でクソ忙しかった時期に、小学校の卒業以来一切関わりの無かった友人から「お前今何しとるの?笑」「お前頭良かったし大学行ってるでしょ笑」とかいきなりLINEが来てぶち切れたことがありましたが、その彼はどうやらマルチ商法にどっぷり浸かっていたらしいと今日2年越しに知りました。

 

最近、大学で仲の良かったサークルの同期が蒸発したこともあって、色々と人生について考えさせられました。現代人のライフサイクルに用意されてる挫折ポイントって多すぎやしませんか。今日飲んだ奴らも、大学の仲間も、高校の親友も、そしてオレも、その挫折ポイントを運良くくぐり抜けてきただけで、まだまだこれからもどこかで誰かがドロップアウトするかもしれない。そう思うとぞっとします。