Nara de Rock'n'Roll 3rd

京都の大学生の独り言……

人として軸がぶれていることがそんなに悪いことなのか、という問題

人としての軸がぶれているから。

最近少し生きづらさを感じていて、その理由を考えてみた。

自分の現在行っている活動、自分自身の興味、将来の展望がみんなばらばらだけれども、他人を見るとその三つが緩やかではあるけれど一点から派生したものであるみたいだ。その一点のことを「人としての軸」という。

自分が他人にとってつかみ所の無い人間に思われるのも、その軸がないために僕自身をひとことで要約できないからだ。

これは単なる自己弁護になるけれど、たしかに一本「軸」のある人は魅力的かもしれないけれど、じゃあ軸があることが善で無いことが悪なのかといえば、僕は必ずしもそうじゃ無いと思う。

軸があるかないか、ぶれているかぶれてないかという問題は生き方の問題であるまえに性格の問題のはずである。性格というのは外交的/内向的のようにどちらの性質が善かと区別することは不毛である。それは単に生まれ付きの性質や経験の違いを表した表層に過ぎないのだから、否定すればその人の出生や人生そのものを否定することになる。良い出生、悪い人生というものはあるわけがないし、あったとしてもそんなものは人によって違う。軸の有無は集中的/拡散的という、人それぞれの個性だ。

軸がない人──拡散的性格の人は生きづらい。

自分が何をしたいのか、何に従って生きているのか、自律的なのか他律的なのか、誰が好きなのか、誰に好かれたいのか、なんで生きているのか……?

全てが宙ぶらりんの状態で、わからないなりにもがいて周りをひっかきまわして、なんとなく動いているような気がしたり、時に手応えを感じたりはするけれど、自分がどこにいるのか、どこに向かっているのかさえわからない。とてつもなく不安だ。そして孤独だ。

僕の尊敬するとある先輩は、司馬遼太郎作品に出て来そうなくらいこの上なく集中的性格の持ち主なんだけど、彼が言うには一見全く繋がりのない活動でも、続けていれば一点に集中していくという。本当なのだろうか?僕はこのままで良いのだろうか?不安だ。だから生きづらい。

たしかに生きづらいけれども、拡散的な人の存在は、繋がりのない複数のものを繋げる結節点と言えないだろうか。一点より派生したものではない複数のものが、ある一人の人間の中にあって、繋がってくる。分散的人間はこの上なく人間的だと思う。AIはせいぜいいくつかの類似したものを提示するか、支離滅裂の全くのランダムしか言えない。拡散的人間は別々の活動に意味を見いだし、その活動を通して自分自身を形成していく。これこそが人間だ。フィクションじゃない。現実の人間は「~の人」というようにキャラ付けなんかできるわけがない。これが人間だ。

解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的出会いは美しいのである。